2009年8月5日水曜日

またまた戸惑い



戸惑いと怠け
日本の緯度とヨーロッパの緯度の違いの図を書こうとしたが、面倒になり、当面借り物。

これに各地のクライモグラフを貼り付けなければならない。

面倒だとネットで探していたら、ドンピシャのサイトを見つけ、大喜びで一寸気を緩めたら、ウイルスが着いてきた。グーグルさんのサイレンにびっくり。
かなり慎重にウイルス対策をしているはずだったのに・・・

各地の雨温度図を手書きすれば、もっといろいろのものが見えてくるかも知れないとも感じる。
それでも、以前ポーランドとスロベニアの研究者達と共同研究をした時に、不思議に感じたことが少し理解できてきたようにも思えるが。とにかく、つまらないと感じることに手間隙かけると、一寸わかって来ることがあるものだ。
アーア、怠け者には気がめいる。

ウイルスさんのご出現は、ヨーロッパのソバの位置づけを考える時に一枚づつ手書きをすることで時間を掛けて考えなさいという意味かも知れないと、反省材料に致しましょう。

私にとってもう一つ厄介な話はブログ形式の使い方である。
ホームページは印刷物に似たような順序で頭の整理が可能だが、ブログはかなり違う。

まー、良いか。
アルファーベット順に国を回るなどと、実に禄でもない案で見えてきたことも多いのだから。
ただし、おぼろげに見えている地点まで歩き続けなければ、バッカじゃなかろうかと、わが身を笑うのみで、オシマイになるだろうなー・・・

モラビア(★)


写真はモラビアのソバ畑 (2004年8月22日)
ソバ畑を見た後で、ソバの製粉工場を見学した。
中々の風格のある老舗で、カーシャがどんどんと吐き出されていた。
だから、製粉工場と呼ぶのは間違いかもしれない。

チェコとモラビアのソバ栽培は12,3世紀頃から盛んになり始めたようで、1596年には押し葉標本があり、毎日の食用に用いられていると付記されているそうである。

ハンガリー・オーストリア帝国の支配下を経験し、その後ボヘミアのチェコとスロバキアとともに1918年に独立を果たしたが、すぐにドイツの、続いてソ連の影響下に生きざるを得なかった。
現在の国名から言えば、モラビアはチェコ共和国の一員であり、私たちは普通はチェコと呼んでしまう。
そのチェコ共和国は、ドイツに突き出たボヘミアとモラビア、さらにポーランドに繋がるシレジアから成り立っている(?)
私はここでその歴史をたどろうとしているのではない。辿ろうとしても出来ないだろう。

とはいえ、チェコといえばすぐにプラハを思い浮かべるが、チェコのソバはモラビアにある。しかもモラビアの東南端のシレジアにソバの伝統的な料理が多ようである。

シレジアと呼ばれる地域は現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的ま名称で、支配者は様々に変化してきた。ヨーロッパの中でも最も複雑な歴史を持つところとされている。
伝統的なソバ料理のあるところは、現在モラビアに属していて、モラビアーシレジアと呼ばれている地域である。

料理は自然環境と歴史によって育てられてきたものだろう。だから歴史は知りたい。
しかも、モラビアで、メンデルは実験材料にエンドウを使いながら、ソバのカーシャを食べていただろうかとか、ヤナーチェクの曲にソバの香りが漂っていないだろうかとか・・・

ところで、ソバの実の殻をとったものを、日本ではソバゴメと呼び、業界用語では「丸抜き」と名付けているが、あれはヨーロッパのカーシャとは違う。
いや、広い意味ではカーシャかもしれない。
日本ではソバ焼酎を造るために大量生産の方法が開発され、原料を日本に買い叩かれていた中国は、付加価値を付けようと、ここでも大量生産を始めた。中国産のカーシャは、世界各地に宣伝されている。ヨーロッパで中国産のカーシャを見つけてみたくなってきた。

ヨーロッパのソバ事情を示すキーを、チェコが良く示していると、私は思うのだが、続きはまた後ほどにしよう。

ただ今 息切れ・・・

2009年8月3日月曜日

明日から再開

エイヤーと気合を掛けて、明日からソバの旅を再開致しましょ。







毎日、Aから順に国を渡り歩くと約束したけれど、日本、韓国を過ぎて、ヨーロッパのLの国へ来たところでアウト。




脳味噌が破裂してしまった。



ヨーロッパの国々の歴史はとんでもなくややこしい。


一応はわかっていたつもりが、私の能力のはるか彼方。



まー良いか。



新型インフルの入国を成田空港で阻止できるわけもあるまいにと、税金の無駄遣いだと頭に来て始めた旅だ。




ソバはウイルスより大きいけれど、名前を付けられて、キングに支配されていたわけもあるまいし、国境で網にかかったわけもあるまいし・・・



「ソバちゃん、その時どうしていたの?」と訊ねて、ニッコリ笑ってくれれば、それで私は十分だ。



「ハチさんが花粉を持って、隣の国へ飛んで行ったよ。混血児が出来るよね」と、ソバが話してくれたら・・・



当面、ヨーロッパで散歩を続けることにしょう。






2009年7月24日金曜日

イタリアのお婆ちゃんはご自慢中

これから手打ち手切のソバをつくります

2009年6月17日水曜日

リトアニアのソバ(★)

6月17日

リトアニアは、エストニア、ラトビアとともに、バルト海に面した国で、近代以降三国ともロシア帝国に支配され、ロシア革命ののち、1918年に独立したが、第二次世界大戦中はソ連とドイツに占領され、大戦後は1980年までまたソ連の社会主義共和国として連邦政府の強い統制化に置かれるという、似たような運命をたどった国である。
エストニアについては6月8日に一寸触れたが、この三国の現状についてはおいおい記すことにしたい。

実は三国のうちのラトビアがソバの生産量は最大である。次はエストニアで、リトアニアは一番少ない。
「L」の付く国を取り上げるなら、ラトビア(Latvia)の方が適当ではないかとお感じになるだろう。全く尤もなご意見である。
にもかかわらず、私は今日はリトアニアにしたい。気まぐれなとお叱りになる前に、一寸お聞き頂きたい。

リトアニアは1430年頃から貴族階級はポーランド文化に同化していき、1589年にはポーランド・リトアニア共和国という政治的統一体となり、領土はヨーロッパ第一の大国となった。その後は1795年のポーランド第3次分割によってポーランドが消滅するまでポーランドと運命をともにした。

「それがどうした? ヨーロッパならその程度の話はざらにあるではないか」

ポーランドはでは当時西ヨーロッパ諸国へコムギ、ライムギを輸出して穀物庫の役割を果たしており、ポーランド国内ではソバが多く食べられていた。農民のみではなく、貴族、王室でさえである。
ポーランドの農業とその輸出がもたらした諸々については、後にポーランドの項で述べたい。何れにしても、ポーランド・リトアニア共和国の中では、ソバのレシピが成長していったと見て間違いないだろう。
これが、私の興味をひく点の第一である。

ところでその頃、地球の裏側の日本では、ソバキリが生まれる。
日本のそば切りの最古の記録は木曾の常勝寺で発見されたもので1574年である。
1643年の「料理物語」には、「めしのとり湯でこねる。又はぬるま湯にても又豆腐をすりて水にこね申す事もあり・・・」。そして、茹でるのではなく、蒸しそばであった。
売り歩くのも、棒手振り(日本の項参照)から、屋台へ、そばの専門店へと進化している。そばのたれも、味噌だれから醤油たれへ、名前も夜鷹そばから風鈴そばへ・・・

地球のあちら側とこちら側の違いは、日本はソバ粉を細い麺にする努力だったが、向こうはソバの殻を剥いた粒、カーシャの料理である。

日本では、味噌にしても醤油にしても、大豆製品が味付けに使われているのにたいして、あちら側では、ミルクやチーズなどの乳製品とか鶏卵である。

日本人がソバの香りを楽しむのは判るが、チーズの強い香りの中にソバの香りを感じるヨーロッパ系の感覚がまだ一向にわからない。しかし、この事が民族とソバのレシピを見ていくのに重要にも感じられるが・・・

とにかく、リトアニアのソバに影響を及ぼしたろうと推測されるポーランドの人々の末裔は、ソバ好きである。 
一週間ばかり後で訪ねたい。

2009年6月16日火曜日

朝鮮半島の北と南のソバ(★)

6月16日
「朝鮮半島の南と北」 

今日は「K」の付く国。Korea 
政治的には韓国と北朝鮮は違うけれど、世界のソバの立場では切り離しては語れない。
しかし、改めて別の国として取り扱うためには、現状を把握することは難しいだろう。
次回からも朝鮮半島のソバとして取り上げたい。

朝鮮半島にはソバの製麺方法は大きく分けると、押し出し麺と手打ち手きりの日本とほぼ同様の方法の二種類がある。
押し出し麺のほうが古くて、昔は「漏麺(シミョン)」といったそうである。ヒョウタンの底に穴を開け、それにリョクトウとソバの粉をやわらかくこねていれると、それから漏れ出して、麺状になるし、ヒョウタンを高く持ち上げれば麺は細くなるという原理を利用したものらしい。これは中国の「河漏」が伝わったものである。
切り麺のほうの歴史は比較的新しくて、コムギが栽培されるようになってからではないかと推定されている。
 ソバだけで打つ場合もあるそうだが、何れにしても朝鮮半島の麺はめちゃめちゃ力を入れてコシの強い麺にするのが特徴らしい。

実は、今回このような調理方法を紹介するのが目的ではない。

 下記は「旧朝鮮における日本の農業試研究の成果 農林省農業研究センター 1976」から読み取ったものである。

 ・・・・一九二〇年頃の記録でソバやリョクトウ、コムギの栽培地の分布をみると、ソバの栽培地の分布はほぼ全域にわたっているが、傾向としては北半分に多い。そして、日本の焼畑に相当する火田の分布は北に多い。たしかにソバが多く栽培されていたとうなずける。リョクトウの栽培されているところも半島の全域わたっているが、西半分のほうに多くて、ソバは栽培されているがリョクトウのないところもある。コムギは半島の南半分に多く、水田でイネの裏作として栽培されている場合と、畑で栽培されている場合がある・・・・。

 この資料を見ながら、私は韓国のソバ研究者たちのことを考えずにはいられない。
自分たちの国であったところの農業の記録が韓国にどの程度残されているのか。さらに、日本が持っている朝鮮に関する日本語の記録を、日本語が読めない若い世代に対して、日本人として何をすれば良いのか? 彼らは今どの程度の情報を北朝鮮から受け取ることが出来るのだろうか?

彼らは私にとって、大切な親しいソバ研究者仲間である。

最初から政治的な話になって恐縮であるが、先日の核実験に対する日本独自の制裁が盛んに議論されている。私はこの紙面を借りてそれにとやかく言うつもりはない。ただ、ソバの世界各地の現状と歴史を調べていると、国家権力の狭間に追いやられて、国境の移動に振り回されている貧しい農民たちがソバを守ってきたのだろうと、考えられて仕方が無い。

そして、研究者というものは・・・・・・

かなり気楽に「ソバの散歩」をと考えて始めたが、改めて、世界の歴史を見る視点をしっかり持たなければならないと感じている。

2009年6月15日月曜日

日本のソバとふりうり(★)

6月15日
「江戸の振売」

土日のダッタンソバを挟んで、前回は「イタリアのフリウリ」を取り上げたガ、今日は「J」の付く国、「Japanのふりうり」をタイトルにしたい。
まるで駄洒落に聞こえるこのタイトルは、漢字で書くと「振売」。
駄洒落ではなく、大真面目につけたタイトルである。

「振売」は室町時代からすでに行われていた物売りの姿で、天秤棒の両側に売り荷をつるして、呼び声を上げながら売り歩くものである。
この形態が最盛期を向えたのは江戸時代であった。 売り物の内容は、豆腐、油揚げ、鮮魚、干魚などなど、極めて多数であるが、私がここで「蕎麦の振売」を問題にしている。

初期の頃の「そばきり」は寺社などで振舞われる特別の食であったのが、この「振売」の中に含まれて売られるようになって、一挙に庶民の食べ物として広がっていった。
今で言うなら、ファーストフードの位置を獲得したのがこの「振売」である。

日本のソバについては語ることが余りにも多い。そこで、今後私は3つに分けて説明して行きたい。
① 栽培植物(作物)としてのソバ
② 農家、栽培者のソバ料理
③ 外食産業として成長して行くソバ
   
① の栽培植物としてのソバは、国が違っても基本は同じ部分が多いから、土日の基本講座(?)として取り扱いたい。
② の農家のそば料理は栽培される土地、風土の影響が極めて強いもので、昭和初期までは地域ごとに多様な料理法が開発されてきた。そばの家庭料理といえば良いだろう。
③ 外食産業としてと名付けているのは、そば切りが現代に「そば、うどん」の「そば」になるまでの経過にかかわる話である。さらに、80%以上の原料を輸入に頼ってきた日本のそば食がある種の国際摩擦を引き起こしている面についても触れなくてはならない。

次回からは、②と③に分けて論じて行きたい。

また、②と③が、国によってどのように違うかは、時代により変わるので、日本ほどはっきり分けられないと言うことになろうかと思うが、それはそれぞれの国の社会構造に大きく影響されるものであろうから、機会をみて、ゆっくりお話できればと考えている。

ところで、日本の麺のそばに限って言えば、農家では時間にゆとりがあるときに、おばあちゃんが打ってくれる手打ちそばであるが、近年流行の「お父さんの手打ちそば」はどちらの系統に入れるつもりなのかと問われると、はたと困ってしまう。いや、訊ねて欲しいと思っているのが本心である。これもまた後に譲るが、それまでにお考えおき頂ければと願っている。

2009年6月14日日曜日

ダッタンソバ(4)利用方法(★)

6月16日

ダッタンソバはニガソバ、苦ソバ、中国語では苦チャオ。
たしかに苦い。
日本でダッタンソバが流行り始めた十数年前、東京の老舗の蕎麦屋が作ったという黄色い蕎麦麺を贈られた。多くに人に試食してもらおうと、再度どっさり依頼したら、中に立った人に苦言を呈された。材料は勿論、打ち方の技術が大変なのに、老舗のものを軽々と要求するとは・・・と。確かに私の方が問題で、失礼であったことには間違いない。

ただ、ダッタンソバを多く栽培し、利用する国々を見てきた私には、日本の蕎麦とほぼ同じ打ち方、ゆで方で食べようとすることがどうも気になって仕方がなかったのである。

その後、ダッタンソバに対する関心は高まり、日本の中にかなり定着してきている。
しかし、ルチンの含量が普通のソバより多く健康に良いという点に着目されて始まった日本では、新品種の開発も利用方法は、普通の穀物の食べ方とは違う方法に進んでいる。

このブログでは今後も各国のソバを紹介し続けていくので、その中で詳しく述べる予定であるが、ごくさわりだけ、ここに紹介しておこう。

ルクセンブルグではクレープ状に焼いくのが伝統的であり、また、ヨーロッパの他の国々で普通ソバにダッタンソバが混入していた頃は硬いパンが多い時代で、パンと麺の粉の荒さが違うから、混入は問題にならなかったものと思われる

中国ののダッタンソバは普通のソバと料理の方法はほとんど変わらず、蒸し餃子、切り麺猫の耳たぶその他いろいろである。ほとんど苦くはないのは茹で時間が長いからだそうだ。この点に関しては後で記そう。
最も一般的なのは乾麺で、健康食として露店ででも売っているし、立ち食いそばの店にも多くの人が集まっている。しかしこれはかなり苦い。インスタント粥の方便粥は手軽に苦そば粥が作れる。苦そば茶は日本の最近流行のものと同様に見えるが、香が良くて非常に美味しい。製法をたずねたら企業秘密だと笑っていた。
また、醸造加工をするものには雛鳳酒に力を入れている。ふん酒の技術を生かして、コーリャンをベースに、ダッタンソバと生薬を混ぜ、さらに孵化寸前の鶏の卵でつくる養命酒のようなものといえば良いだろうか。雛の姿を思い浮かべなければ美味しい酒に感じられた。黒酢の原料になるが、料理に醤油より酢を使うことの多い中国料理では需要が多いのかもしれない。

ネパールでものダッタンの調理法は普通ソバとそれほど変わらない。葉をサラダ風に食べるのはダッタンソバが多くて、やわらかいからとされている。
ネパールのボテと呼ばれている品種はダッタンソバの中で唯一果皮がはがれやすく、コメの様に炊いて食べる苦くないものである。一つの限られた地域にだけ存在する、幻のダッタンソバとも言われている。

ところが、中国山西省のダッタンソバ研究所の庭に天火干しをしているダッタンソバは全部殻が割れていた。そこで食べたダッタンソバ料理が苦くなかったのも、ソバ茶が美味しかったのも、果皮が剥がれる品種だったからなのか、黄土高原の極めて強い太陽光と乾燥した空気が果皮を割り易くするのか、わからない。品種が特殊なのかと尋ねてみたら、「いや、どれでもこうだ」と返事をされて、私いは唖然とし、猛然と再挑戦を心に決めたところで終わっている。

2009年6月13日土曜日

ダッタンソバ(3)(★)

6月13日


「ダッタンソバの栽培技術と品種」

今回の土日もダッタンソバの続きになります。
何だか味も素っ気もない書き方ですが、日本にはダッタンソバについての情報が少ないと言うのか、とにかく日本に馴染みのない作物なので、一応の常識程度として目を通しておいて頂きたいと思います。
ダッタンソバが最近ではかなり流行ってきていますが、だからこそ、基本を知っておいて頂きたいと考えるのかも知れません。

★ ダッタンソバの栽培技術

普通ソバより野生に近いものだから、栽培も簡単だろうと考えられるかもしれないが、そうではない。
病気と虫害の種類は普通ソバと大差なく、うどんこ病や褐斑病(褐紋病)などの普通ソバと同じ病気にかかるが、普通ソバより病気に弱い。また発芽初期は根切り虫の害が大きい。、したがって、畑は十二分に耕し、深耕して清浄に保つ必要がある。
もう一つは収穫時の問題で、無限伸育成の程度が普通ソバより大きく、登熟の固体内変異著しいのと、脱粒性が大きいので、収穫時期の決定が難しい。これは収量性や食物としての利用場合の品質に関係するばかりでなく、種子として用いる場合にも大きな影響を及ぼす。

★ ダッタンソバの品種

これまでのダッタンソバに対する見方から推測されるように、ダッタンソバは他の主要穀物のような近代的な育種の経緯は極めて短い。しかし、広い地域で栽培されてきたから、それぞれの環境条件に適応した在来品種が多数存在する。

ネパール国内から収集した94の在来品種を粒の色と形で分類すると図○のようになり、地域によってそれらの出現頻度は異なっていて、東ネパールと中西部ネパールでは灰白色長粒型と灰白色短粒型がほとんどで、両地域ともに標高が2000m以下では長く、標高が高くなると短粒型が多くなる。西ネパールでは標高に関係なく短粒型は10%以下で、殆どが灰白色長粒型である。黒色長粒型は東と中西部の2500~3000mで見られたが、西ネパールでは3000m以上にある。
粒型の違いは最もわかり易いので、農民は品種の早晩性や美味しさなど品種の特徴を示すのに用いている。なお、翼粒型は農民たちは雑草と認識している。
この話の続きはネパールの項に譲りたい。

ダッタンソバが短日植物あるのは普通ソバと同様で、暑さに弱く、寒さに弱い作物で、晩霜と初霜をさけて栽培されるから、緯度と標高によって大枠はきまる。すなはち、高緯度ほど短日反応性の弱いものが分布しており、標高の高いところは短日反応性の弱いものが分布している。
しかし、実際にダッタンの栽培されるところは谷間のようなところだから、小地域でみれば前述の大枠は必ずしも法則的にはあてはまらない。
ダッタンソバの収量は自殖性で不受精花のない分普通ソバよりも一般に多収と言われているが、筆者らのダッタンソバと普通ソバと20数品種を供試した栽培試験で、国内での試験でもネパールでも1.5倍から2倍余りの収量を得た。


★ ダッタンソバの新品種育成

中国では地域の農業技術研究所によって、それぞれの地域に適合した奨励品種が品種育成されている。九江苦蕎、西蕎1号、川蕎1号、楡6-21、鳳凰苦蕎などであり、選抜育種、ガンマー線照射、固体あるいは在来品種間の交配を主とした方法で続けられている。

日本での最初の育種は旧ソ連から入手した在来品種の選抜で、北系一号が北海道全域に適合した品種として育成された。先にあげた中国の奨励品種の粒の大きさは1000粒重でみると、20~22グラムであるが、北系1号は16グラム程度で、かなり小粒である。

その後、随分力を入れて育種が進められているが、残念なことには一般的な利用が進まない。その理由についてはまた後で述べよう。

2009年6月12日金曜日

イタリアのフリウリ(★)

6月12日

「イタリアのフリウリ」
イタリアの次は「J」の付く国。勿論Japanである。
江戸に詳しい方なら「振り売り」と読まれて、イタリアのはずを日本の原稿下書きと間違ったのではないかと、一瞬首をお傾げになるのではないだろうか。私も入力しながら、カタカナ変換のつもりが漢字になって驚いた。
数日前から体調・脳調ともに低下中だから、やっぱり・・と、ハッとした。

ご安心ください。「フリウリ」は立派にイタリアの地名で、ユリウスのフォルム(集会場)から来た由緒ある名前である。場所はイタリア東北部のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア特別自治州にある。などと書くとなんともややこしい。
長靴の国の長靴をを引き上げるときに持つあたりといえば良いだろうか。いや、さらにややこしい。
ベニスの一寸西北といえば一番ピンとくるだろうか?

イタリアの中部と南部は冬コムギと夏はコメがとれる。北部はトウモロコシの栽培が多いと、ごく簡単に図式化すると、イタリアのソバ栽培は北部である。ヨーロッパアルプスの南麓の寒村には広くソバが栽培されていて、ゲーテを感動させたのもそのあたりである。
今でもちらほらと栽培されている。

数年前、私が見に行って、伝統の料理ピッオケリオの実演を見たのは、北イタリアの中央部あたりのテグリオだが、そこの話に入る前に、ここフリウリに着目しているのにはそれなりの訳がある。

ピッオケリオはフリウリの伝統料理でもあるが、フリウリの方が古いような気がするからだ。
テグリオからさらに東の、イタリアとスイスにまたがるコモ湖の観光ホテルのシェフに、フリウリから蕎麦打ちの名人が出向いているとか。だから、「ピッオケリオは東進したのだ」などと、言うつもりはない。

ここから後は、ソバを求めて彷徨う場合の私の感の働かせ方の話である。
歴史的なことは、勿論図書資料によるが、その場合は小寒冷期といわれる時代の人口と農業改革あるいは耕地拡大を大枠にして、狙いをつけていく。
現代の話なら、地形と気候と、そこに住む人の歴史である。もう少し具体的に言えば・・

フリウリに狙いをつけているのは、フリウリ語(Furlan)はイタリア北東部のスロベニア、オーストリアと国境を接するるフリウリ地方で話されている言語で、言語学的に派インド・ヨーロッパ語族ロマンス派レト・ロマンス語群の属する言語だそうである。
50万人の話者を持ち、レト・ロマンス語群で最大を誇るが、スイスのロマンシュ語のような公用語の地位はどこの国においても獲得していない。
これが私のソバを追う姿勢であるが、実際には中々ややこしい。
戸惑いの数々は、追々白状していこう。

私の友人に、調理化学の専門家と食物学の専門家がいる。調理化学の専門のほうは、何を聞いてもスッキリと答えてくれる。ただし、何やら現実の問題とは少しかけ離れているように感じる。食物学の方は、料理の名前や料理方法を聞いてつまらないことにこだわり始めると、「はっきりしないのが料理というものだ」と、怒ってしまう。例えば粥と雑炊の区別のようなもので、そこまでが粥なのかはっきりしないような話だ。

世界のソバを訪ね歩くと、カーシャという言葉は今後も度々出てくるが、これがまたややこしい。

話を戻して、イタリアのソバ料理については次回あたりに述べることにするが、イタリアにはカーシャ風な食べ方、つまり粒あるいは引き割りで作る料理は無いのではないかと感じている。
しかし、リゾットがあるから、ソバのリゾット風、つまりソバ粥もあっても不思議ではない。

ブツブツ言いながら、月曜日には「J」の付く国、日本へ帰ろう。
土日はダッタンソバの予定だが、それで脳調・体調は回復できるかしら??

このところ、入力ミスのチェックもやりたくない気分。ダメだなー

2009年6月11日木曜日

ハンガリーのドナウ川

6月12日

ハンガリーのソバに入る前に、何故6月1日からのブログを、各国一日の割合で毎日歩こうと思い始めたかを話したい。
それは丁度新型インフルエンザが日本にも入るかも知れないと、成田他の空港でのものものしい検疫が始まった頃である。私には国際線の検疫で止めることなど思いもよらない話だった。もし恐ろしい感染力と症状を伴うものなら、同時に国内の体制を整えるのに力を注ぐべきではないかとも考えられた。
その他にも、北朝鮮のミサイル問題などなど、日本の国際対応に多くの疑問を感じる事例が続発していた。
そして、それらは日本のものの考え方に他の国々とは違う○○があると。

ソバとインフルエンザウイルスを同じに見るわけではない。しかし、人間と人間以外の生物にとっての国境とは何かを改めて考えて見たくなったと言えるのかも知れない。

あるいは、「安心安全」の標語のもとに、輸入食糧の産地を明記したり、食味期限の表示をやかましく言ったりすることが、日本人の健康に繋がるのか。危険な食物を日本へ送ることになってしまった他国に対して、その原因を作ったのは日本ではなかったのか? 
など、個人とは、国とは何かを考えたいと始めたのでもある。

この話の続きは、また別の機会に譲るとして、今日の○○のハンガリーに入ろう。
とは言え、ハンガリーの日に、「国」の問題を考えたのには、若干個人的な意味もある。

25年前に、スロベニアとハンガリーの国境を写真に撮って、国境警察で2時間あまり拘束されたころがある。この話を単に私が不注意だったからとお叱りにならないで頂きたい。ほぼ同じ頃、ほぼ同じ地点で、日本の著名な写真家が国境警察にフイルムを露光されてしまったのだから。
ここで私が言いたいのは、「私は日本人だから、国境なんて海の向こうの地平線としか感じられない」といったときに、その警察官が「それは予想できる。でも我々の国の状態も考えて欲しいのです」と言った会話である。
結果としては、私のフイルムは露光されずに手元に残り、二人で大笑いをしていただけの尋問だったが、

 実はこの国境警察の話は、ドナウ川に広がる平原のスロベニア川のソバ畑を見に行った時の話である。
 「プスタ」と呼ばれるハンガリーの大草原の西の端は、スロベニアの首都リュブリアーナまで広がっていて、そこには、ソバ畑、トウモロコシ畑など、スロベニアの穀倉地帯となっている。このことは、何れスロベニアの項で記すとしよう。

 ドナウ川はドイツのライン川、あるいはポーランドのビスワ川のように一国を流れる川ではない。ドイツのシュヴァルツヴァルトに源を発し、オーストリア、ハンガリーなど、18の国々を流れて黒海に注ぐ。ドナウは正に中部ヨーロッパとバルカンの川であり、古来オリエントとヨーロッパを結ぶ東西の架け橋とも言われてきた。
しかし、一方では沿岸地域に極めて多くの民族、宗教が錯綜して、そこに繰り広がれれた戦争の軍用道路の役も果たしてきた。

ハンガリーの歴史もまた複雑である。
それに深く入るには、若干疲れている。
次回は、ハンガリーの大平原を中心に繰り広げられてきた農業の視点から見て行きたい。

明日は[I]の付く国へ


 

2009年6月10日水曜日

グルジア 夢の里ノソババ(★)

6月10日
「グルジア 夢の村のソバ」

25年近く前、ネパールからインド、パキスタン、中央アジアの国々を経て、コーカサス山脈の西を通り、トルコへぬけるルートでの調査を計画したことがある。アゼルバイジャン、グルジアはどうしても通って見たかった。アジア起源の作物の西進を追いたかったからである。時期が悪かったとしか言いようも無い。パキスタンのカイバル峠さえ越えられず、あとはピョンピョンと飛行機で飛んでしまった。

それ以来、コーカサスの南の国はあこがれのままに残っている。

グルジアからロシアへ抜ける道は世界的にも有数の美しい道だと言われている。軍用道路として広がられ、悪名高い道ではあるが、その道からかなり離れれば、ソバの里があるだろうと推測される。コーカサス越えの辺りは、トルストイをはじめとして、多くの芸術家が霊感を受けたとも伝えられている。

歴史も民族も極めて複雑で、こんがらがってばかりである。
やっぱり、その地に滞在して、顔を見ながら生活すれば、少しは理解できるのだろうか?
夢でも良いからいくことにしょう。

本気でいってみなかれn

ソバは北西部の山手にあると思うのだが・・・

2009年6月9日火曜日

フィンランド セリアック病とソバ(★)

6月9日

今日はFを頭文字に持つ国。
フランスのクレープを食べようと昨夜から期待しておいでだったかしら?
ごめんなさい。
今日はフィンランド、先日のエストニアの北の国からです。
フィンランドの現状を見て回る前に、5年前の夏祭りに来た時の状況をお話しておきましょう。

ルオベシはフィンランドの第二の都市タンペレから北へ約七十五キロ、森と湖の国の名にふさわしく網目状に広がる湾の一つに面して、ひっそりとたたずむ港町である。ノイタカラヤット(魔女裁判)という祭りを見に出かけた。ソバの栽培面積が日本一の町、北海道の北端近い幌加内町の人たちが、そば打ちの実演に招待されていたので、私は応援かたがたの見物である。

ノイタカラヤットも、北欧の各地で夏至の前後に行われる夏祭りの一つである。いかにも農村の祭りらしく、地元の野菜の他に、衣類、台所用品、子供たちの喜びそうな菓子や食べ物の露店が並んで賑わっていたが、その中で幌加内の人々はソバ打ちと獅子舞をやった。はるばると日本からの出店に、集まった人々は勿論大喜びであったが、「二八そば」よりもソバ粉百パーセントの「生そば」に人気が集中していた。

最近、日本国内ではソバ粉百パーセントで打つ「生そば」が人気上昇中だから、フィンランドでもそうなのかとお感じになるだろうか。彼らもコムギ粉の入らない食感を好むのだろうと。 いや、違う。コムギ粉のグルテンが問題なのである。と書けば、例のセリアック病のことかと気づかれるかも知れない。
それについては後で記させて頂こう。デパートの食品売り場ではグルテンフリーのコーナーがあり、アメリカから輸入したソバのカーシャを何種類も売っていた。

フィンランド国内でのソバ栽培もごく最近になって注目されはじめている。古くはロシアとの国境近いカレリア地方で栽培されていたが、一九四四年のフィンランド・ロシア紛争で、ソバ栽培の盛んであった東半分がロシアに所属するようになってから、フィンランド国内では栽培されなくなっていたそうである。

ところで、ヨーロッパでは栽培されるムギ類は、コムギ地帯から北へ向かってライムギ、オート、オオムギ地帯へと移行する。コムギとライムギは果皮がはがれ易くて粉になり易いから粉食になり、はがれにくいオオムギとオートは粒状で食べるのが伝統的である。ソバはそれらのムギ類より後から導入された作物で、粉食はコムギ、ライムギ地帯に、粒食はオオムギ、オートムギ地帯に分布していると言えるだろう。

ヨーロッパのソバの生産量は二十世紀後半には急激に減少してしまった。その理由は勿論ヨーロッパ農業の近代化の結果だろう。ソバはコムギをはじめとした生産性の高い穀類に及びもつかないからである。ところが最近になってヨーロッパでも若干生産量が増えてきており、また輸入も増加してきている。その理由は日本と同じように飽食の中での健康食、機能性食品としての認識、さらには食の懐古趣味もあるようだ。しかし、それだけではないことは、先にフィンランドの例で示した通りである。そして、これは日本には見られない現象である。もう少し詳しく述べたい。

セリアック病は小児期、ことに離乳食の穀物によって激しく発症し、多くの死をもたらす。腸で栄養分を吸収するための絨毛をすり減らし、栄養を吸収する機能を失わせるから、下痢、脂肪便、体重減少、全身衰弱を引き起こすものである。しかもこれは遺伝的な病気で、一時的に快方に向かっても、一生付き合わなければならず、大人になっても新たに発症する可能性ある厄介な病気である。

セリアルは穀物の意味ではあるが、この場合の穀物はムギ類である。コムギの害が最も大きく、ライムギ、オオムギ、オートと続く。グルテンはパンを作る場合の展性と粘性に必要で、膨らみ方に関係するから、パンになりやすいもの、つまりグルテン含量の多いものほど害が大きい。横道にそれるが、日本で上質とされるコムギ粉は、グルテン含量の多いものを指し、農水省の研究機関でも育種目標の第一はグルテン含量である。

パンをはじめとして、パン粉をまぶした食品、クリームソース等の料理に使うコムギ粉は勿論であるが、コムギ粉はソーセージ類の点着剤、薬の増量剤や各種の健康食品のタブレット、さらには缶ジュースの中にも含まれている。こうした多様な用途の開発はコムギの栄光ある歴史といえるような気もするが、セリアック病からすれば、少量のコムギも摂取できないのだから、日常生活が危険に満ちていて、特殊の食堂以外での外食はできないとされている。

セリアック病で食べられる穀物にはトウモロコシ、コメ、ソバ、キノアなどがあるが、それらの多くはヨーロッパ、ことに北欧では栽培出来ない作物で、伝統的な食文化の成立していないものが多い。そのためにソバへの注目が集まる結果になるのだろう。もっとも、ソバもダメと記されている場合も散見される。ソバにはグルテンは含まれてはいない。最初、私には何故なのか解らなかった。やっと見つけたその理由は、ムギ類の混入の危険にあるとのことであった。製粉機に残るコムギ粉の混入、畑で雑草として混じってしまう麦類などが問題なのである。ことに輸入の場合は危険だとしている。

オートもセリアック病を引き起こす。しかし、グルテン含量はコムギやライムギに比べてはるかに低い。オオムギも同じことが言えるだろう。そのオートとオオムギの伝統的には粒食の地域で、セリアック病のサポートセンターが多い。何故なのだろう? セリアック病の研究論文の中に、数年前にはこのことを考える論文がかなり見られた。民族の狩猟や農耕の歴史と病気の関係のような、若干漠とした話である。しかし、病気のメカニズムに関する最近の輝かしい研究の発展は、それらを影に押しのけてしまったようにも感じられる。私自身は栽培生態学が専門であるから、数少ない種類の作物や品種の地域広大は、栽培作物の生産性や気象条件に対する安定性の面からは何時も大いに心配する。しかし、それが人間の病気にどうかかわるのかは、どうも筋道がよく解らない。とはいえ、生産や加工の効率だけで、栽培作物や飼育動物を均一化する危険を痛感する。

ヨーロッパやアメリカ以外でも、パンを食べる国々ではセリアック病の問題は重要らしく、南半球のオーストラリア、ニュージーランド、ブラジル、アルゼンチンなどにもあって、それらから日本のソバの食べ方を教えて欲しいとメールが来る。しかし、日本の誇る「生そば」をその人達が打てるだろうかと、戸惑ってしまう。パンを作るための製粉器具は麺のばあいより荒い。幌加内町の人が、フィンランドのソバでは打てないから、もっと細かく挽くようにと現地の人に教えていた。その優しい姿に心打たれて眺めながら、私は「ここは細さや香りに目の色を変えている今の日本ではない」と言いたくて、うづうづしていた。

ヨーロッパで広く言われる言葉「白の三悪」は、オートの国にも大きな影を投げかけていると、改めて感じた次第でした。

あれから5年、セリアック病のための食事の研究も大きく進歩したようですから、ソバに頼ることは少なくなったでしょうか。

2009年6月8日月曜日

エストニアのソバが食べたい(★)

6月8日

来年の7月下旬、モスクワの南アリヨールで、第11回の国際ソバシンポジウムが開催される。今回は是非ともペテルブルグへと思っていたから、お隣のエストニアを訪ねない手はないだろう。

 エストニアにはかなりのソバ畑があるようだ。
 ソバの立場から見ると、北の国で一番気になるのは生育期の長さと日長である。
夏至の日の日照時間は19時間、冬至の日は逆に6時間しかありません。5月上旬か
ら7月下旬にかけて「白夜」と呼ばれ、深夜でも真っ暗になることはありません。
よほど日長反応性の弱い品種でなければ育つまい。

1番寒さの厳しい2月の気温は -3.5℃~-7℃、日の1番長い6月は16℃~20℃
になりますが、エストニアの気候は北海道とそう変わらない。
 北海道の幌加内町が日本一のソバ栽培地だから、北海道へと気楽に思えばよいだろう。

エストニアには1,500以上もの島と1,000以上もの湖があり、さらに国土の半分が森に覆われているそうだ。国土はほぼ平坦で、自然の豊かな国で、ヘラジカ、イノシシ、クマ、オオヤマネコがエストニアに生息している主な哺乳類。
これもまた素晴らしいではないか!

 ところで、私がこれまで歩いてきて感じているのは、民族料理には、そこの自然と歴史的に作り上げられてきた庶民の生活様式が常に反映している。
 北海道のソバ料理はあまり特殊なものが無いように感じられた。多分、北海道にソバが広く栽培されるようになってから未だ日が浅いからだろう。
 海に面していて、魚が豊富で、狩も盛んなところのソバ料理なら、さしずめ日本の東北地方の海岸近い村に残る料理ではないか・・・などと、想像してしまう。

 ものの本によると、19世紀の終わりまで、まともに食事をするのは日に1度夕食時だけで、そのときカーシャかパフリョーフカ(野菜スープ)が出されたとのことである。
 最も普及していた料理が、大麦の挽き割りで作るパフリョーフカだった。それは少しの牛乳を入れた水で煮られたが、それも主婦の気前次第だった。時には、わずかな脂やバターが入れられた。パン、塩漬けにしんと一緒にパフリョーフカを食べた。
 エストニアの北部や西部では、水曜日と土曜日毎に夕食に添えてカーシャが出された。この日を首を長くして待っていた、カーシャは美味しい料理の一つと考えられていた。

 ここで紹介されているカーシャはソバのカーシャではないだろうか?

丁度同じ頃の東北の農村の姿を思い描いてしまう。

 日本の食生活は、おしなべて豊かになったようであるが、「手打ちそば」だけが日本文化の象徴のように言われると、私はソバに申し訳ない気がしてしまう。
 こんな話は、日本の項で細述しよう。

2009年6月7日日曜日

ダッタンソバ入門(2)(★)

6月8日

イスタンブールの街は如何でしたか?
ヨーロッパのソバの歴史にとって東西の交流は大きな意味を持つものなので、イスタンブールの空気を味わっておいたのは良かったと感じる日が近いかと思います。

一応、今日はダッタンソバ入門の続きをお話しすることに致します。

その前に、
私には日本にもっと早くからダッタンソバ(ニガソバ)が栽培されていても不思議ではなかったのではないかと思えるのでして、「日本のソバの七不思議の一つ」に思えるのです。一寸心に留めて置いて下さいね。

● ダッタンソバの種実


普通ソバが三菱形をしているのに対して、ダッタンソバはムギやコメのような丸い型をしており、殻と呼ばれ果皮がはがれにくい。これがダッタンソバを苦ソバと呼ぶ苦味にもとである。
そのほか、葉の形は本葉は心臓形で上に行くほど尖ってくるのは普通ソバと同じであるが、一般に少し薄くて柔らかく、葉の表面に毛が殆どない。
また、草丈はダッタンソバの方が普通ソバの1।2~1.3倍程度高いものが多い。


● 起源と伝播


ソバ属の主なものには普通ソバとダッタンソバ、宿根ソバ3種があるが、何れも中国の南西部の貴州、四川、雲南あたりの山岳地帯で起源したと推定されている。
そのうちのダッタンソバは、シベリア、インド北部、ネパール、ブータン、中国北部、東北部、北鮮、韓国、カナダ、アメリカなどに分布しているが、自殖性だから野生で残るものもあるから、普通ソバよりもかなり広い範囲に分布している。しかし、起源地の中国南西部からこれらの地域への伝播の経緯については、普通ソバよりさらによく解らない。
例えば、旧大陸の中では最も新しく伝播し、記録も揃っているはずのヨーロッパでさえもはっきりしていないのが実情である。1730年代にヨーロッパのいくつかの植物園で収集されており、大体その頃に雑草として種子が普通ソバに混じって伝播して、環境不良な地域でダッタンソバのみが生育し、栽培されるようになったのではないかと推定されている。とにかく、ヨーロッパへは普通ソバより2、3百年ばかり遅れて伝わったようである。また、当時はヨーロッパの寒冷と食糧危機の時期にあたり、開墾地で栽培されたようである。
では、最近の数十年はどのような扱いを受けて来た作物だろうか。いくつかの事例で示そう。
ヨーロッパではルクセンブルグの西北部イスレクという開拓地に今も栽培されていて、来年にはダッタンソバのソバ祭りを計画している。しかし、他の国々には今はもうほとんど残っていないようである。スロベニアの場合には、25年位前までは、普通ソバの畑に20パーセント程度までは混入していても無害なものとされていたが、現在では混入は殆ど見られない。カナダの東部へはヨーロッパから導入されて、飼料作物として盛んに栽培されていたが、いまではここでも雑草の扱いを受け、防除の研究が盛んに行われている。
また、現在最も生産量が多く、研究にも力を入れている中国でさえも、政府によって栽培禁止令出された時期があったとも伝えられている。
これらを総合すると、日陰の作物として生き続け、最近健康食の名のもとに、急に注目を浴びてきているのがその運命と言えるのではないだろうか。


● 栽培地の分布と環境


ネパールについては、4,5日後に詳しく紹介しますが
南部に広がるテライ平原を除けば、ほとんどの地域で普通ソバもダッタンソバも栽培されているが、地域によってその比率は大きく異なる。東部に普通ソバが殆ど栽培されていないのは、モンスーン地帯の西端に近いこのあたりでは、開花期の雨が昆虫の行動を抑制し、受粉を妨げるのが大きな要因の一つと考えられる。
なお、亜熱帯のテライ平原でも普通ソバの栽培が若干見られるのは、ソバを好む山岳民族が最近になって移住してきたためである。

中国のダッタンソバの栽培地は、先日一寸紹介しましたが、雲南、四川、貴州、チベットと甘粛、きょう西、山西省などで、標高が1500~3000mの高標高地帯の寒い地域に分布する。普通ソバとダッタンソバの分布を比較すると、図からも明らかなように、普通ソバがきょうせい省の山岳部を境として北に多く分布するのに対して、ダッタンソバはそれより南に多い。これはネパールの場合に言及したように、栽培時期の降雨との関係が大きいのかも知れないと推測される

また明日からの旅、Eの頭文字の国ですが、どこだと思いますか?

2009年6月6日土曜日

ダッタンソバ入門(1)(★)

6月7日

イスタンブールでエーゲー海を眺めながらの休日をとることにしました。
ソバの旅には直接の関係は無さそうなのですが、世界を見る目を養うためには良い時間になるだろうと思いながら。
トルココーヒーを飲みながら、今日はダッタンソバの話をしょうと思います。
ブータンの農民の間には、普通のソバとダッタンソバを一緒に播くと、何年かの内にダッタンソバだけになるとの言い伝えがありましたよね。
中国では、普通のソバとダッタンソバでは、栽培地域が違う。
こうした話に対する理解を深めるために、そして、今後度々出てくるダッタンソバを身近に感じられるようにと考えた、入門の講義です。


● ダッタンソバとは

最近健康食の一つとして脚光を浴びてきているダッタンソバを、植物の側面から見るのがこの一節の内容である。それを一言でいえば、「手打ちそばを作る普通ソバの親戚で、従弟か、はとこのようなものだ」と言ってしまえそうなのだが、それでは余りにも芸が無い。もう少し詳しく書いてみよう。
ダッタンソバはこれまで日本に栽培された歴史はないが、世界的に見れば分布の広い農作物である。そのダッタンと筆者の出会いは30年余り前、ヒマラヤのエベレスト街道に始まる。ネパール語でパーパルはソバ、ミトは甘いとか美味しい、チトは辛いとか苦いの意味だから、ミトパーパルは普通ソバ、チトパーパルはダッタンソバを指す。カトマンズで、エベレスト街道の高いところにはミトパーパルがあると聞いて出かけたが、登れど登れどあるのはダッタンソバばかりだった。そのあたり、ソルクンブ地域には普通ソバは無くて、ダッタンソバのなかの美味しいものをミトパーパルと呼ぶのだと、後になって知った。
何ともややこしい話を始めたようだが、これは普通ソバとダッタンソバの関係を示す象徴的な話でもあったのだと、その後、世界のダッタンソバを調べながら強く感じるようになった。

● 植物としての特徴

○ 自殖性のソバ
普通ソバもダッタンソバもソバ属に属し、近縁の植物であるが、両者の植物学的な違いのうちで最も大きなものは、前者が他殖性、後者が自殖性である点である。
普通ソバは雌しべがおしべより長い長花柱花と、雌しべの方が短い短花柱花があり、それぞれは別の固体についていて、形の違う花どうしで受精する。ダッタンソバはどの花も雌しべとおしべの長さは同じで、自家受精する。
ダッタンソバの方が花びらの大きさは小さく、色は薄緑や黄色、ピンクなどいろいろあるが、いずれも目立たない。虫媒で受精する普通ソバのように虫をひきつける必要がないからとでも理解しておけばよいのかも知れない。英語ではグリーンソバとも呼ばれるのは、この花の目立たなさによるのだろう。

ドイツのソバはBuchweizen(★)

6月5日

楽聖バッハはソバを召上っていただろうか?
日記にその記載が見つかった訳ではない。何かの証拠がある訳ではない。
それにも関わらず、私はイエスと答えたい。

バッハはワイマールの宮廷音楽師だったが、本人はお酒好き、最初の奥様との間の子供は7人、次の奥様との間には12人、それなりに生活は慎ましかったのではなかろうか。
勿論、これは現在の庶民の感覚であるから、いますこし置いておこう。

同じワイマールの宰相だったゲーテは、アルプスのブレンナー峠を越えて、その南麓に広がるソバ畑に痛く感動したと、「イタリア紀行」に記している。ゲーテにとってソバは親しい作物だったと推測されよう。

(バッハが活躍したのは18世紀前半、ゲーテのブレンナー峠越えは1786年である。)
   。
遡って見てみたい。
ドイツにおけるソバの最初の栽培の記録は。14世紀末である。それより早くからあっただろうとの説もあるが、その詮議はここでは止めておこう。

1602年に発刊された「新農業」という本には、在来の一般的なパンのほかに、戦時下のパン、飢饉の時のパン、新素材のパンなどを網羅し、それらの作り方も添えた一般書である。全部で80種類近いパンの種類が記載されているが、ライムギパン、コムギパン、スペルタコムギパン、オオムギパン、エンバクパンに続いてソバパンが挙げられている。
なお、この本は14世紀にイタリアで出版された本のドイツにおける改訂版であり、ソバはドイツ改訂版に初めて見られるものである。

ところで、18世紀のヨーロッパは、人口の増大とそれに伴わない食糧生産と飢餓、そして農業発展を繰り返したとされている。代表的なものを上げると、1709-1710年のヨーロッパ全体の飢饉。1739-41年のフランスとドイツの飢饉、1741-43年は南ヨーロッパを中心の飢饉、1771-74年は北ヨーロッパを中心の飢饉であった。飢餓の世紀とさえ言われる。
しかし、飢え死にしたのではない。この世紀にも人口の増加は続いていた。解決方法としては、耕地の拡大と新しい生産技術の開発をもたらした。

こうした状況の中で、ソバが主要な役割を果たしたというのではない。食料不足の中で新しい作物が登場し、イネ、トウモロコシ、ジャガイモなどである。ソバはそうした作物に混じって、そっと支えてきた作物だった。たとえば、開墾地に最初に栽培の可能な作物として、あるいは畑の空く期間が短いときに栽培する、あるいは茎も葉も食べられる野菜として・・・あくまでソバはそっと傍に寄り添って生きてきた作物であることには違いなかったろう。

飢餓の世紀をもたらしたのは、地球全体の寒冷化がより大きな問題であろう。
日本の18世紀は天明の大飢饉を始めとして、大小の飢饉とそれに伴う百姓一揆など、多くの社会不安をもたらしている。

これらから、バッハがソバパンを召上っていても、さして不思議ではないと私は考えることにした。

ところで、18世紀のドイツには、バッハ、ゲーテの他に、   多くの楽聖も文人達を輩出した。バッハ、モーツアルト、ベートーベン、文学ではレッシング、ヘルダー、ゲーテ、シラー、そして哲学者カントと、ドイツ学芸の花開いた時期に、ソバの栽培が最高の年代が一致したと言う、偶然かもしれない事実を、ふと、偶然ではないと思いたくなる。

ドイツのソバ栽培は18、19世紀がピークで、20世紀に入ると、ドイツのソバ栽培はどんどん減少した。

先日のアメリカの話の中で、ソバはヨーロッパからの移民がもたらしたものだと述べた。19世紀末のアメリカの民族構成をみると、ドイツが最多である。アメリカへソバの種とドイツ風のソバパンをもたらしたのだろうか? 
次回アメリカのソバ料理を見るときまで、心にとめておこう。

2009年6月4日木曜日

中国のソバは蕎麥(★)

「中国のソバは蕎麥(莽麦)」
6月4日
ここは西安の中心、鐘楼。シルクロードの基点に近接している。

旅のツレ 「折角中国へ来たのに、何を浮かない顔をしているのだ?」
案内人  「うーん・・・ 今日一日で中国のソバの何を紹介すれば良いかが判らない」
旅のツレ 「そんなことは最初から判っていた話ではないか」

そう、確かに判っていた。中国は世界第二のソバ生産国であり、日本への輸出量はダントツに多い、そして、栽培ソバの起源地で、栽培の歴史は最も古く、現在の文献も世界最多などなど・・
もしそれらを加味して日程を組めば、おそらく中国から出られなくなるだろうと予測して、どの国も一回は一日で全ての国を回ることにした。
その計画に、後悔しているわけではない。

また中国の中で、ここ西安に最初に来たことは意味があったと思っている。
甜莽すなはち日本で食べる普通ソバは、このあたりより北の地域に多く分布しており、苦莽、最近はやりだしたダッタンソバ(ニガソバ)は、このあたりから南に分布している。
世界的な視野に立って、両種の栽培環境を検討する場合にも、食文化を比較する場合にも、この地に立つ意味は十二分にあると考えている。

がー・・・・

旅のツレは突如
      「何度来ても良いけどなー、
       「オマエ、チュウゴクゴガワカルノカ? 
       ソコガカンジントチガウカ!」
案内人  「何と申しましょうかしら?」
       「中国のソバ研究の大御所二人、古くからの 友人でして。でも二人とも日本語も英語も ダメなんです。」

ツレさん   「ボクのホウガハルカニマシダ。
        あんたも日本で中国語を習えば?」

案内人    「中国語ガ上達しないのは発音からしっかり勉強しないからだ、との日本の外国語教育は私には役に立ない。  まー、諦めて付いて来て下さいな。 その内に私の腕をお見せ致しますから」

(案内人の独り言; 途中で詰まらん質問するから疲れる)

頭に来てしまった案内人は、次の文を手渡して眠っちゃいました。
案内人が悩んでいるのは次の文の最初の2行の中身。中国語ガ一寸判るぐらいではダメなんですよねー
中国の歴史を知らなければ・・・・・

在我国古代原始农业中,甜莽有极重要地位。历代史书、著名古农书、古医书、诗词、地方志以及农家侄语等,元不有关于莽麦形态、特性、栽培和利用方面的记述。自古以来,我国人民以葬麦子实磨面制成悖悖、煎饼、汤饼(河漏)等作为食品,茹食嫩叶;以轩辟虫;干叶、皮壳、碎粒、葬款以及茎
轩作饲料;茎轩垫圈、讴肥; 皮壳、茎轩的灰分提取碳酸钢等工业原料,花和叶提取芦丁作医药
原料s 此外,甜葬还是我国的重要蜜源作物和救灾作物。
甜养生育期短,是很好的救灾填闲作物。1954 年,长江流域遇到了特大洪涝灾害,国家从内蒙古等地向灾区调去了甜莽种子215∞t ,在湖北、安徽、江苏、河南等省种植,发挥了很好的
生产救灾作用。内蒙古、山西、黑龙江、甘肃等省区有计划地收购储备葬麦种子, 20 世纪50 年代,国家在每年数量在5∞010∞Ot ,并作为一项制度保持了较长时间。
20 世纪50 年代以后,随着耕作制度的改革和农业新技术的推广,各种粮食作物在实行精耕细作后,产量都有了突破性的提高,甜莽的产量虽也有所提高,但远不及其他粮食作物增产幅度大,加上其他原因,甜葬种植面积逐年下降。据不完全统计,目前全国20 省区甜葬种植面积约54.6 X 104hm2 ,总产约30 x 104 t ,食用约占60% ,外贸出口约占30% ,自留种子约占10% 。

案内人は夢をみておりました。
最近の中国の出版事情や古文書解読の技術の進歩、ネットの普及の凄さに圧倒されながらも、楽しんでいるソバ仲間たちとの会話の・・

2009年6月3日水曜日

ブータンのソバ(★)

6月3日




ここはブータン。平和の竜の国。

頭文字がBの国で、ソバが栽培されている国にはBrazil, Belaruce, Belgy,など、他にもあるではいか。
ことにBrazil は生産量がアメリカに次いで多い国で、日本が輸入している国ではいかと、疑問にお思いになるだろう。
しかも、ソバという単語を書けもしないのに・・・・

そうなのです。確かに、ごもっともなご指摘です。
でも、顔も着物も日本に非常に似ていて、コメを食べ、ソバも多いと、日本人にファンが多い国であることも確かでしょう。

その類似性を説明する一つとして、照葉樹林文化論が風靡した日も遠くない。が、私はここでその是非を云々するつもりはない。今のところ、先ずブータンのソバを紹介しょうとしている。

でも、昨日はアメリカ、今日はブータン
まさか時差ぼけでも高山病でもあるまいが、同じソバでもこれほど文化の違うところのソバを紹介するのは大いに脳の混乱を来たしている。
それでも、2つだけ重要なと思うことを紹介しておきたい。

 ブータンには稲作が多く栽培作物の中では最も重要なものである。標高2700メートルまで栽培されていて、世界で一番標高の高い稲作だろうとされており、赤米を栽培している。ちなみに日本の稲作の最高地の記録は1300メートルあまりである。イネをつくるチベッタンともいわれる人びとの国である。
 しかし、2700メートルを越えるとさすがに温度がさがり、コメはできなくなって、オオムギや雑穀の地帯にかわる。そこで重要視されてきたのはソバで、ダッタンソバがふつうのソバと混播されている。
 ブータンの農民は、ふつうのソバを連作するとダッタンソバに変わると信じているのだそうである。実際は二つの種が簡単に交配することもない。植物学的に説明すると、ふつうソバの開花期が雨に遭遇すると虫の訪花が少なく、当然自殖性のダッタンソバの稔りの率が多くなる。単にそれだけの話である。
 「そんな説明ではヒマラヤのロマンが薄れそうだ」とお感じになりませんか?
 私も、何かもっと素敵な説明がないかと探しているのですが・・・・



 ダッタンソバについては近く説明したいと考えています


 ただし。味も素っ気もない自然科学的な説明ですが。

 


もう一つ、世界を歩くためには、頭をからっぽにしておかなければという話。
1995年の信大で開催した国際シンポジウムにブータンのKさんが出席してくれた。しかし、出席したと一言でいえるような簡単な話ではなかった。手紙とファックスで連絡を取り合い、時間がなくなる頃には電子メールに代わったのだが、返事を書いても返事が来ない。でもまあ、その程度のことは国際シンポジウムともなればあきれるぐらいに頻発していたから、大した話ではない。
 Kさんは成田でスタッフが出迎えたのは確かだが、東京で待ち構えていたスタッフから見当たらないとの電話が入った。つまり、到着直後に行方不明になって私たちをオロオロさせた。ところが、会場の準備を進めていたところへ、ヒョコッと現れた。他の人たちが乗ってきた指定のバスの到着予定の時間よりかなり早く到着したのである。
どう計算してみてもその時間で長野県の伊那へ着くことはできない早さである。
その理由の詮索はともかくとして、「山岳民族が山を走ると自動車より速いんだよね」と、スタッフの一人がいって皆で大笑いした。

この解釈をどうお思いになるだろうか?

今日はメモにブータンの諸事情を残したままで終わらせて頂こう。
いつかこの続きを追加として書かせて頂く事をお許し頂きたい。

明日は頭文字が「C」へ

2009年6月2日火曜日

アメリカのソバはBuckwheat (★)

6月2日

今、ここはニューヨーク

ソバを栽培している国で頭文字がAの国は、America以外にも少なくとも、 Austria, Australia, Azerbaijan, Armenia, Albania , Afghanistanなど多くあるのに、何故またアメリカへ?
しかも、「ソバはBuckwheat」と、陳腐な旅の始まりではないかとのご叱責を頂くだろうか。

そう、日本人から見れば、アメリカは輸出国として日本のそばを一時支えて来た国であり、その後は健康食として日本食がもてはやされるようになって、ニューヨークに蕎麦屋が増えたようというようなことが、一番の関心事だろう。

私は少し違う視点から、アメリカのソバを見る第一回にしたいと考えた。
ソバ栽培の伝播は、建国当時ヨーロッパからの移民たちがもたらしたものである。寒さと飢えに苦しんだ彼らの日常を暖めるものとして、ソバ食は大切にされたのだそうである。
詳しい話は次の会に譲ろう。

「Buckwheat」は英語では植物のソバ。その英語がアメリカ語になって「まぶだち」の意味が加わった。
「まぶだち」は友達、親友、ダチ公。

日本でも江戸時代地方から出てきた大工や火消し人夫の簡単な食べ物としてはやり始めたと言われている。まさにダチ公達が田舎を懐かしみながら食べた蕎麦である。
丁度同じ頃、アメリカではヨーロッパからの移民たちがもたらしたソバを食べる仲間としてのダチ公をBuckwheatと呼びあったのだろう。

序に触れると、Dr. Buckwheat、とかペットにBuckwheatの名が結構ある。犬や猫をソバちゃんと呼び、歯医者さんが蕎麦医院と言う次第。こちらは一寸日本的ではないように感じられるが、意外にあるのかも知れない。
とにかく、アメリカのソバは人々に愛されるものとして栽培され続けてきたと言えるだろう。
Buckwheat Zydeco を聴かれたことはあるだろうか? You tube にも試聴コーナーがある。ロックンロールとブルースをベースにしたような、私にも聞き易いものである。何故ソバかと言うと、かれの髪型がソバの実に似ていたから、ソバ君のあだ名になったのだそうだ。

もう一つ、ウエストバージニアには今年が68回目にあたる有名なソバ祭りがある。
かなり大掛かりな農業祭で、豚や牛、ヤギなどの品評会、木工細工、勿論ソバで作ったケーキの展示即売会。さらには消防士の女性・男性のコンテスがあって、女王と王が選ばれるなど、実に盛りだくさんらしい。Buckwheat Zydeco の生演奏も聴けるのだそうだ。
毎年、9月の最後の週に行われるので、今年は9月24日~27日だそうで、その時には再訪して、日本のソバ祭りと比べてみたいと願う。

ところで、このソバ祭りが行われるウエストバージニア州はアパラチア山脈内部に位置している合衆国内で唯一の州であり、すべての地域山岳内にあることから、山岳州(The Mounと愛称が付けられている。まるで信州ではないか。

アメリカのソバ生産は18世紀と19世紀に多く、20世紀になると急速に減少した。1918に4,000平方キロ、1954には600平方キロ、1964年には200平方キロの落ち込み方である。日本がアメリカから輸入をしていたのはこのあたりの頃で、日本の輸入に対する態度が、色々の問題を残したが、それらはまた次に残そう。

現在ソバ畑が広がっているのは、カナダのソバのメッカ、マニトバのウイニペッグを中心とした平野であるが、アメリカのソバ畑もその南に広がっている。

かってに比較すれば減少したとはいえ、広大なソバ畑へ直接行かずに、何故ニューヨークへ来たのかと、疑問に感じられるだろう。

一つには、ヨーロッパからの移民がもたらしたソバの伝統に触れたかったこと。

もう一つは、ニューヨーク州立のコーネル大学のソバの研究者に会うためである。
コーネル大学は世界的にも優秀な大学とされていおり、多くの分野で多彩な研究者を続出しているが、農学も充実した分野とされている。そこの若い研究者が、実験的な研究と農家への普及活動をどのように組み合わせているかを、日本の大学と比較してみたかったから。T. Bjorkman は最初に会った十数年前には、如何にも青白いインテリタイプで恥ずかしがり屋の、笑顔の優しい青年だった。その後、精緻な研究と巨大な畑に応用できる実用研究を両立させながら歩いて来たようだ、彼のボスはソバの低収量性の最大の原因である受精結実の研究の権威であり、私もソバの研究を始めた頃は、彼の研究論文をむさぼり読んだものである。

栽培作物には、植物として世界共通のこともある。農作物としては、その地の自然環境の特殊性の影響が、食べ物としては・・・・そう、共通する問題と特殊な問題を
とりあえず今日はこれで終わろう。

残念なことが一つ
時間がなくて、アメリカのソバ料理が食べられないこと。
健康食品として、新しい食べ方がたくさん開発されて来ているけれど、ヨーロッパの古い伝統的な食べ方がアメリカに残っているだろう。あるいはアメリカへ渡ってから開発された食べ方など。次回は、是非とも探してみよう。

明日は頭文字がBの国。

2009年6月1日月曜日

散歩のお誘い {世界のソバ」へ(★)

6月1日

世界のソバを訪ねる旅に出かけてみませんか。

国をわたるのに、飛行機も長い列車の旅も、険しい車道もありますから、散歩とは一寸奇妙なとお感じになるでしょう。
あくまで散歩気分での旅の意味です。
デイバッグを一つ持って、のんびり、ゆっくりとした気分での旅です。

ご案内は私、ご一緒頂ければ、二人旅をしたいと思います。
案内者の私は、世界のソバ事情に少し詳しいかと存じます。でも、案内者は説明者で終わりたくございません。二人で歩けば新しい発見が期待できると思います。
如何でしょうか?

道草したり、その地のマーケットで買い物をしたりしながら、気の向くに任せて、色々の国のソバの世界を訪ね歩く旅です。

ただ二つだけ、出発に際して取り決めをしたいと思います。
● 頭文字がAからB、C・・・の順に。
● 一日一国。

勿論、勿論、一日で一つの国の事情が分かるわけはございません。
何度も繰り返し訪れる。と言うことは・・・・
何度も何度も世界一周をする旅の計画は、
一寸いかすでしょう?

何度目かには、案内人は教えて頂く側にまわるに違いありません。

まず最初の一周は、一寸覗いて、友達を作り、また来ますと言えば十分と思って下さい。

明日は頭文字がAの国、America, Austria, Australia, Azerbaijan, Armenia, Albania , Afghanistan

どの国にもソバが栽培されております。
どこに国に致しましょうか?

どこへ行くにしても、早く決めて、
今夜のフライトに乗らなくっちゃー。

何処にしましょう??

2009年5月31日日曜日

明日からソバの旅へ(★)

5月31日

昨日の減速と方向転換は一応成功。ただ今停泊中。
心機一転して、6月から世界の旅に出ます。

何と名付ければ良いでしょうか。
「世界のソバ散歩」奇妙な語感ですよね。
その旅にお誘いしたいと考えております。

世界の旅に出るための大きな荷物を用意するのは、出かける前に疲れちゃいますので、散歩の気分で出かける旅です。ゆっくりのんびり世界のソバを愛する人たちを訪ねあるく旅です。
ツアーではございません。案内人と2人の、気楽な旅は如何でしょうか?

詳細は明日お届け致します。

2009年5月30日土曜日

ただいま減速運転中

5月30日



20日あまり、まるでほろ酔い運転のようなブログを公開してきた私も、少し慣れて、大いに反省して、6月から次の段階に進もうと思案中。
次の模索のための減速と、若干の方向転換を試みようとしている最中。

方向転換と言っても、SOBAについて語ることには違いないのだから、大した方向転換ではない。しかし、より広いものに触れながら、少しでも深い考え方にして行きたいと願うと、なかなか難しい。

旋回と速度の関係は簡単ではなさそうだ。
飛行機は速度を落とすと墜落の危険が。
車は高速でUターンすると、キューンと滑って横転する。

と、ブツブツ言いながら
明日はおぼろげながらでも、6月から続く日のための計画を決めよう。

単に一直線に歩くことで、いつかはSOBの全容が見えるわけではない。
しかし、毎日は直線だ。

2009年5月29日金曜日

五月病からの脱出?

5月29日

そろそろ五月も終わる。
連休が終わるころから五月病が話題になり始めていた。
新入生や新入社員のはじめて味わう挫折感や未来の見えない不安である。金融危機であろうと、インフルエンザの襲来があろうとなかろうと、五月病は飽きもせずやってきて、若者たちを悩ませるのが、この世の常とでも言うのかもしれない。
別段、若者に限る現象でもないような気もする。

幸か不孝か、私は一般に言われるような五月病の誘発条件にひっかからない年齢に達した。しかし、毎年毎年四月五月に、心身の不調がやってくることには変わりない。
その気分を誤魔化すために、毎年何がしのことをやっている。そして、その影響が夏になってからやって来る。楽しい仕事の準備だったと思えたり、過労の残りだったりする。

さしずめ、このブログは、五月病を乗り切りための、気紛らわしと言うところだろうか。
しかし、とにかく毎日書こうとすることで、リズムを取り易かったように感じられる。

ごらん頂いた方々には全く申し訳ないと思う。
最初から、目的を明らかにしておいて、「しょうがないなー」とか「バカだな」とかと、お笑頂いたらよかったのにと、思わないではない。

どうかお許し頂きたい。

文章の論旨は勿論、至るところに見え隠れしていた不備を、訂正することもなく続けましたことを。
推敲しはじめると、自己嫌悪で中止するに違いないと、ひたすら自分を甘やかして、単に毎日投稿を欠かさなかった。
それを公表したことにかすかな、いやかなりの悔いが無くもない。

しかし、毎日ほんのわずかなことの理解が、心地よかった。
それなりの疲労も、楽しさの裏面だったと思う。

六月になれば、きっと梅雨で欝かもと、笑えない予想も立ててはいるが・・・・

とにかく、ごらん頂いた方々に、お礼を申し上げたい。
そして、誰かが楽しい計画を立て、私がサポート出来るような機会があればと思う。

2009年5月28日木曜日

生物指標

5月27日

今日もまた、ソバの話題の印(★)を付けようか、思いつくままの無印にしょうかと迷っている。結論から言えば、これまで何の纏まりもなく彷徨っているような話題も、私の中では★の周りを彷徨っているからで、分類すること自体がナンセンスなのかも知れない。

ソババは、日本の社会に何かが起こると、これはソバの社会ではどうなるのだろうかと、ふと考える。何とも馬鹿馬鹿しい発想だが、ペットを飼っていられる方には一寸お分かり頂けるかも知れない。「犬に訊いてみよう」とか「猫ならなんと言うだろうか」と、ふと感じる類に似ている。

例えば、医学界の新発見があって、今日のネーチャーに載りますと、テレビで放送されると、その新発見の実験材料や個体数からの結果を、人間社会に適用しないで欲しいと、すぐに思ってしまう。
人間もソバも他殖性で、DNAは簡単、一生も短いソバでも随分個体変異があるのになー・・・・・  まー、言えばこの調子である。

大いに戯画的(?)な表現をしたが、生き物の生存環境を単に物理化学的な要素に分解して記載することには大きな疑問がある。人間についても勿論そうだ。表皮の外との関係も、中の器官どうしも、細胞と細胞の関係も含めて、そう言える。

計器が発達して、いかにも確かそうな数値が得られ、多くの項目についてそれが可能になってくると、上述したような話は、如何にも馬鹿馬鹿しく感じてしまうが、本当に馬鹿馬鹿しいで済ませられることだろうかと、時に疑いたくなる。
DNA犯人を決めるのは、最近の多くの犯罪検挙の決め手とされているが、日本より早くからその手法を取り入れてきたアメリカでは、それが冤罪に繋がった多くの事例が見つかっている。DNAの分析方法の変化による。計器は日進月歩である。

生態学的によく研究され、生息できる環境条件が限られていることが判明している生物の生息状況や変化などを参考にして、ある地域の環境の質などを類推・評価する指標生物を用いて研究をするのが好きだ。
もう一歩進んで、その指標生物を多く組み合わせて計る方法があればと、よく思う。下手に使うと何が何やらわからなくなる。

しかし、上に「もう一歩進んで・・・」と書いたが、狩猟民族や、昔の農民、漁民たちは、私たちが数値化にこだわる段階でお手あげになることを、日常的にやっていた。

おお!!

2009年5月27日水曜日

公共放送

5月27日

幸いにも、新型インフルのその毒性は予測された程ではないようだ。 それにも拘らず、感染ルートの調査を公開し続けている。 専門家の説明の最後に、感染元の子供や家族に周囲からの誹謗中傷が押し寄せているが・・と、付け足しのように述べていた。

事実を報道するのか報道機関の責務だから、これまでのやり方で良いと言うつもりなのか。
感染源らしい人について、個人の名前は伏せたから、個人情報の保護はしたと言うのか。

最初にNHKのニュースで感染ルートの情報を流し始めた時、これは危険だと思った人も多いだろう。
こんなことで人に肩身の狭い思いをさせて良い筈はない。
まして、子供を傷つけるとは。

事実の報道とは

2009年5月26日火曜日

抗体列島

5月26日

新型インフルの予防に、入念な手洗いをしている子供たちの姿を見ると、あんなに石鹸をつけて洗っても大丈夫なのかと心配になってくる。
とにかく痛々しい。

成田で検疫が始まった当初から、素人の私には、日本上陸は避けられないだろうし、国内での感染拡大も起こるに違いないと感じられた。
感染者数は今夕現在で351人と報告されている。正確そうな数値にみえるが、本当だろうか? 不安を煽る気があるわけではない。単に、感染者がいても見つけられないのが現状だろうと感じるに過ぎない。

ところで、ある程度の年齢層以上は抗体のある人が多そうだとの話は、これはどうも本当のように感じられる。

後は、夢のような、話に移る。
新薬を探すのみではなく、社会全体としての抗体を作る方法はないのだろうか?
高齢化社会の日本は、全体的に見れば、抗体の保有者が多い国である。奇妙な言い方だが、抗体総量の多い国。それを使って、国全体の抵抗力を高める方法を見つけようとの研究はないのだろうか? よその国にはあり得そうな探求の一つに感じられるが・・・・。
あまり日本的な発想ではない。しかし、島国という入口の狭さと、抗体を持った人口の率から、日本は最適な試験の場ではないだろうか?

「危険な考え方だ」、「犠牲者が出たらどうする」と言われれば、返す言葉もない。
しかし、薬によってウイルスや菌に突然変異が起きることも、途上国では、その薬さえも行き渡らない人々が数多いのが現状である。

グローバル社会になってしまった今、病気への対応も違った方向から対処する術を探す以外にはないのではないだろうか?
現代の日本なら、薬も栄養も、その他の条件もそれなりに揃っているから、大きな危険を冒さないで、次のやり方を模索できるのではないかと、そうありたいと、思わずには居られない。
ゆっくりで良いから、方向転換を願いたい。

勿論、私の考える程度のことは十分考えておいでの方がいられるだろう。
若い頃から、夢のような話を思いつくと、20年後だったり、30年後だったりするものの、それは現実に、目の前に現れてくる。

ここに記した夢も、その芽はどこかに見つけられるに違いない。その情報を探して、遠くからでもエールを送ることにしたい。


2009年5月25日月曜日

起業家山姥

5月25日

今日はババのやっている企業の話をさせて頂きます。
グローバル企業なんですが、わかりやすいように日本の話からはじめさせて頂きやす。

起業は先ず、市場調査から、
日本で最近とみに不足してきている商品は「笑顔」じゃ。  ごく簡単に開発商品は決定。

次に不可欠とされる資本金は、
    ① 100円ショップの財布とコインジャラジャラ
    ② 皺々の顔、ショボショボの目、ヨロヨロ・モタモタした動作
成功不成功の決まるまでの期間
     そんなことどうでもよい。資本金がタダ同然やから、
     しかも、未来永劫人間である限りは必需品。
営業方針と社員の心得(当面の目標)
     レジの人を必ず笑わせる。
     上の資本金で、毎日必ず笑わせるための工夫
現在までの営業成績
     90から95%というところかな。
     100%は一寸無理

他にやっている対象は、タクシーの運転手さん
    一寸手間が掛るときもあるけれど、カリカリした運転は危険だから
    一生懸命に聞き役、慰め役、励まし役をやっている。
    意外な情報収集の余得も多い。

バカバカしい話とおしやいますか?
如何なる政策も、日本が誇る研究開発も、これを抜きには意味が無いと、おわかり頂けませんせしょうか?



次はグローバルに展開している方の話も少し、今日はほんの少しだけ。
こちらの資本金は日本国内とは一味違います。
資本は一種類のみ。  「語学力不足」

?? 「ワカラン」 ??
「やっぱり日本人やねー。 2,3の具体例で教えます」

北京、オリンピック以前の北京市内から空港高速を走った時の話
あの死にそうなほどの目茶目茶運転と渋滞の真ん中で、タクシー運転手が、
「ボクは英語が五ことぐらいしか分からないのですが・・・・」
「私も同じ程度よ」
「だったら、五言と五言でいこうや」
五言と五言のリズムに乗って、渋滞をすり抜け、北京空港までぶっ飛ばして無事到着。
超高速、目の舞いそうな。
その間に、私は亭主と子供が2人になっていたけれど・・・・
?? ナンダッテ
シングルだと言って、Why ? が始まったら、車はノロノロ運転になっちゃうでしょ。
それに、日本のお役所にご面倒をお掛けする訳でなし。


時々亭主や息子、娘は出現して、人数も職業も様々。

3年ほど前にはカラチで、会社経営者で超多忙の亭主と、世界的な数学者の息子と、ピアニストの娘。
恥ずかしげもなく・・・・フフフフフ

絨毯屋のウインドウショッピングをやっていて、店員さんと話し始める羽目になりまして。
頭の良さそうな青年で、聞いてみると、頭脳明晰さで有名なパシュトーン族、
同族の私の友人の話に及んで・・・彼はフランスへ留学して大学の教授をやっているんですが。
「来年は家族で来てくださいよ、きっと、きっとですよ」になってしまいました。
それまで、嘘は一言も言わなかったのですが、これはヤバイと気付きました。
いずれは「日本へ呼んで下さい」に続くのは必至。
折角彼が「家族と・・」と言ってくれたのだから、それを使わない手はない。
でー、家族全員超多忙で、全員が日本には滅多に居ない商売になった次第であります。
それでも、何故数学者? いやー、インドで数学者の息子を出現させたり、ヨーロッパでピアニストの偽娘を作ったりは致しません。偽家族を作るにしても、出現させる場所の歴史や文化に対する多少の知識は要りますよねー
  (オオ、これは詐欺師の義務教育と同じだ。 ヤバイ)   

嘘ばっかり言って歩いているのか?
イイエ、いいえ。

鉄のカーテンの重かった頃の東欧で、国境警察の30分の尋問にちゃんと100%正直に答えて、笑い通しでおしまい。
「お前がボケーっとしているから、捕まるのだ!」
、いえ、いえ、丁度同じころ、ほぼ同じ場所で、日本の有名写真家がフイルムを露光されてパーだったんですよ。
私の場合は「私は英語が下手なんですが・・・・」
「僕も下手だよ。下手と下手なら結果は良いに決まっているよね」で始まっただけの違い。


グローバル企業の婆が言いたいのは、日本の技術は優秀やとか、大金を出して途上国の支援に当てるとか、簡単に言ってもダメだってこと。
論理の飛躍ですって?
まーね。
論理的に説明可能なように、さらなる事例を提示せよおしやるなら
ウレシイナー   何時かまた聞いて頂けますか?
日本のゴミみたいに山のようにあるんやから。

でも、もう   ヤメトキマショ

5月24日  (★)

5月24日

「5月24日(★) 」
5月24日と仰々しく書いたが、別段日本のそばの何かの記念日に当たる訳ではない。
おいしいソバがとれる時期でもない。
単に私が、5月24日にポーランドの農村の土に触れてみたいと、30年近く思い続けていて、それが果たせず、日本で落ち着かない時間を過ごしているに過ぎない。
ポーランドのソバは5月24日に播種されるのだそうだ。 何故5月24日なのかわからないから、その理由をすこしでも知りたくて、そこへ行ってみたいと思い始めたのだ。

今では日本各地に見られる荒廃農地も、ごく最近まですべて作物で覆われていた。
一年中どのように土地を使うかが農家の最大の関心事で、労働生産性とか、現金収入が問題ではなかった。だから、主な作物の収穫から次の作物の播種までの、ごく短い期間に栽培できる作物、いわゆる隙間作物は便利で大切な作物であった。それが日本のソバだった。

だから、各地の隙間の時期に適応出来るソバの品種が大切にされてきた。

ソバは、もともと日の長さが短くなると花芽を分化し始める短日性作物である。
その短日反応性の強いものは、秋になると花芽分化の後の温度が低くなり過ぎる北方では十分結実まで至らない。長日条件でも花芽分化する短日反応性の弱い品種が北に、短日反応性の強い品種が南に分布するのが一般的な傾向である。

この一般的な傾向は、日本の中でも、ヨーロッパやカナダ・アメリカ、ネパールなどを含めても成り立つ法則性である。
ここで一見例外的に見える場合があるのは、標高で、高くなるほど低温になるから、同一緯度でも高くなると、より北の品種が用いられると見ても良い。

日本のようなかなり温暖な地域では、もう一つの例外がある。春先の隙間作物としてのソバは、同じ緯度でも日長が長い時期に花芽分化が可能なもの、短日反応性の弱い、北の品種に似たものが用いられてきた。

ヨーロッパやカナダの研究者と共同研究を始めた頃、私は上に書いたような法則を見つけることにかなり夢中になっていた。もう少し付け加えれば、この法則から外れる場所の自然条件や農業事情を知ることに力を入れていたと言えばよいかも知れない。それが、その場所のソバの重要性に関係するものと考えられたので。
言葉たらすな説明になったが、また何時か詳しく書きたい。

そうした中で、ポーランドのソバは、何やら他とはかなり違う要因で播種日が決まるような気がして来た。何やら違う・・・何とも頼りない話だが、だからこそ、その時期の農地を触ってみたいと。

その後、ポーランドへは3度訪れたが、季節が異なり、播種日にはまだお目に掛っていない、
ぼんやりと感じている話でも、30年近くも経てば、それなりの結論に達しても良さそうなものだが、なかなかそうはならない。

悪いことに、社会経済情勢は急速に変化し、日本の場合など、ほとんど20年前の栽培品種は残っていない。栽培時期も、栽培農地も変わり、隙間作物は観光作物化してきている。
「それで良いではないか」との意見も多い。ここでその件について云々するには重過ぎる話題だから、宿題とすることにして。

様変わりする前に早く行きたいとの思いが、余計ムズムズした気分にさせるようだ。

ソバをすき間作物として使うのは、単に農地の空いた期間の利用という意味だけではなくて、多くの意味で実に巧妙に組み立てられていたものだと、改めて驚かされるものなのだが・・・・

今夜もまたコールドゲーム!!

2009年5月23日土曜日

同窓会

5月23日

今日は、京都の鴨沂高校の同窓会東京支部会だった。
三時間ばかり、自分の近況、家族の話、現在の日本の政治批判、悪戯に凝って過ごした高校生活・・・・・そのごちゃ混ぜは、正に高校時代さながらで、大笑いをして過ごした。

終わりに近く、世話人を続けて下さっていた加藤さんからの事務引継ぎの挨拶があった。
「 ・・・・・・・会の貯金も引き継ぎますが、献花代はもう四人分しか残っていません。皆さん、慌てて取りに来ないで、遠慮して下さい」と、かすかに笑みを浮かべての挨拶。
一瞬、ほんの一瞬の後「ワカッタ」と、声が掛かって、全員爆笑。

別れの挨拶は
「来年まで遠慮して生きんとあかんでー」
「ちゃんと遠慮してるのよ」
「お互いに遠慮してようね」

校則も、先生の注意も、受験勉強も、すべてどこ吹く風で、悪戯だけは一致協力していたガキ達が、五十年後の今日は、プールしたお金を使わないように協力を誓った次第。

慎み深く生きて、来年も全員が顔を合わせることを、改めてここで祈ろう。
どうか皆様お元気で!。

2009年5月22日金曜日

自画自賛

5月22日
「自画自賛」
いえ、これは「山姥徘徊記」とでも改名した方がよろしいかも。
心優しい方々が、時々山姥の廃屋をお訪ね下さっているようで、感謝に耐えないのですが、そのお優しい方々でも、さすがに山姥の自画自賛なんてことは聞くにたえないと、横をお向きになると、大いに心配になるのですが・・・・
それでも、山姥は書きたいのです。

山姥はただいま東京。はるばると、山(奥から三時間もバスに乗りまして、東京の新宿歌舞伎町へ参りました。
「何言ってるのだ。たかが三時間。それもバスでしゃーないか」
いえねー、山姥はこの世で一番の苦手はバスなんでして。

そんな話は序文でした、
この投稿は始めての外からの投稿なのであります。
何でも初めてのことは嬉しゅうございまして。
「単に回線が繋がっていれば良いぐらいのこともワカランのか?」
「やっぱりなー、ババだなー」
理屈(!!)がそうだと位は、婆でもよーく存じております。
理屈と現状が違うと、一つ一つ当って、確かめるのが婆の趣味でして。
いえね、もう一寸言えば、そこで失敗するのが得も言えず楽しいのでして・・・

お聞き頂けますでしょうか?
ムカーシ、たしか、もう十二年前のことになりますか、メールが身近になり始めた頃です。
面白そうだと思って、外国から出そうと思いましてねー
当時まだデッカイ、重い携帯用マックを引きずって、試してみたいと旅にに出ました。
最初はローマの国際機関に勤める人のところへ。
日本人ならややこしい説明も日本語が通じるから大丈夫とおもいまして。
ダメでした。
そのお方は英語がペラペラだから、日本語でメールをする必要がなくて。
しばらくして、日本語で通じるようにしたと、メールが来ましたが・・・

その足で次に訪ねましたのは、スロベニアの大学のお兄さん。
コンピューターにめっぽう強い人で、ロシア語入力が一般的ではなかった頃から、自分で開発していたような人。
そこでなら出来そうかと期待したのですが・・・ ダメでした。
理由はねー
その頭の良いお兄さんが使っていたのはウインドウ系。
周りのPCに強い人たちを集めてくれたのですが、やっぱりダメ。
つまりは、私にマックの言葉を英語に翻訳する力がなかったから。 多分。
IT関連のマニュアルは日本語でも読む気がしないでしょう。 あれですよね。
当時はウィンドウとマックがまだまだ疎遠だった頃なのですよねー と、しておきましょう。

その旅は・・・
不貞腐れて、小雪のちらつくウイーンで一寸道草し、雪のヨーロッパアルプスを眺めながらの展望車で、ザルツブルクに寄って、チューリッヒ出ました。知り合いは居なかったのですが、スイスの国際都市ならと、かすかの希望を持ちまして。
結果はーー
ネットの使えるところは、何処も何処も超満員でして、予約がとれても、私のオネムの時間帯。 あきらめて帰国しました。

その後は?
飽きもせず、失敗と成功を繰り返すのですが・・・
大体が、私の怠け心に裏打ちされた試みなのでして、一歩が乗り越えられないのが常ねございます。

次は退官した年に・・・

「わかった。わかった。 今日はもう寝ろ」
    (ババの長話は飽きた! 飽きたよなー)

はいはい。
(ベラベラしゃべって悪かったなーとは、山姥でも判っとりますやでー、)
お有難うございました。

?????
そやけど、これで投稿して、ネットさん受け取ってくれはるんやろか??????

2009年5月21日木曜日

徘徊老人

5月21日

今朝から四回も村の広報車が回り続けている。
村の老人ホームから行方が判らなくなった人の探索依頼である。
私とほぼ同年齢の男性だとか。
何を求めて歩き出したのだろう。
見付かったとき、笑顔で迎えてもらえるだろうか。

 父母が京都から私宅へ避暑に来ていたある日、職場へ母から電話が来た。散歩に出たまま帰ってこないと。 職場へは電話をしないことにしていたから、一寸驚いた。
 車で探し回ったが、見つからない。まだ日が高かったから、そのうちに帰ってくると思っていたのか、大いに心配していたのか、記憶にない。とにかく、しばらくして、二キロばかり離れた野菜の直販場まで迎えに来るようにと、知らない人からの電話が来た。
 父によると、自宅のすぐ横にお宮の林があるから、少し遠出をしても大丈夫と、どんどん坂道を上がって行った。ところが、上から見ると、同じように見える林が沢山あって、坂を上がったり降りたりしながらまわったけれど、探し当てられなくなったとのだそうだ。
 無責任で、その上に迷子の趣味のある私は、大笑いして、それでも「私が司会役をしていた会議中だったのよ。ほんまにー」と、一寸目を剥いて終わった。
 しかし母は、呆けた、呆けたと煩く言うから、診察してもらうことにした。先の日々を思うと、母としては当然である。
 検査結果は実年齢よりはるかに健康値だとのこと。酒とタバコ、コーヒーは大丈夫でしょうかと訊くと、「今更止めても、どこも良くなるわけはないですよ」と笑われて、本人はいたく喜んだ。 あの満足の笑顔は忘れられない。
 検査結果の数値は見を私は見なかった。患者の顔を観察しながら、この人はこのような表現をすると元気になると判断されたのは、さすがに名医と思った。
八十歳前後の話である。

 それから数年して、両親と父の姉の三人で掘り炬燵で世間話をしていた時、父はトイレから帰ってすぐにまたお猪口を持って、にこにこしながらポックリ旅立った。

 私自身は迷子になるのが好きである。
 あの慌てふためく一瞬が、何とも言えず面白い。
 しかし、後期高齢者になると、困ることが出てくる。
 先日もウイーンで迷子になった話を始めた途端に、呆けが始まったのかとばかり、同情の眼差しで見つめられ、自宅の周辺ではなくて・・・とは言いもならず、しょんぼりとして、話をそらせてしまった。

 山の貴方を求めるのは、年齢に関係がないのではないかと思う。
 もし私が徘徊をする時が来たら、迷子になったら、「傍迷惑だなー」と、笑ってお小言を頂戴したい。
必ず笑って、からかって欲しいと思う。

 老人ホームの方も、咎められたり、叱られたりするよりも「楽しかった?」と訊いてもらう方が、これから後の、出歩きたい衝動を抑えられるのではないだろうか?

 今はもう夜でも寒くはないから良いけれど・・・・

2009年5月20日水曜日

自殖弱勢

5月20日


ソバの話題としての★印を付け忘れた訳ではない。

自殖弱勢はソバの低収量性の最大の要因の一つであり、長らく続けられてきたテーマの一つである。穀類の中では唯一の他殖性であるソバは、他の穀類に比較して収量が著しく低く、その受精の過程に及ぼす複雑な要因が、多くの研究者の関心を挽いてきたし、農家の気苦労の種であったのは確かである。
だから、何とかして自殖性のソバを得たいというのは長年の夢である。世界の育種研究者の最高峰とも言えるロシアのフェシェンコは、数種類の自殖性ソバの品種を育成し、その問題点を指摘して、すでに二十年以上も前に、その有効性・可能性疑問を呈していた。それにも拘らず、彼の息子の一人が自殖性の研究を続けることを支援している。おそらく遠い道のりだろう。

ここで取り上げたいのは、そんなソバの研究に携わってきた私が、最近の様々な社会現象に表れる日本の特徴を、この「自殖弱勢」の単語で表現したくなることがままあるからだ。
同じような現象に対して、アメリカ、ヨーロッパ、中国など、多くの国家の対応はもっと柔軟に見える。それらは何れも多民族国家か、他民族との接触が多い国々や地域である。

近年の安心安全の標語が、さらに日本の弱さに拍車を掛けているように思えてならない。
正解が一つであるような錯覚に陥り、努力の空回りを続けているのではないかと感じられる。そもそも、正解があるという前提自体がおかしいと、考えるのを許さない環境作りをやっているようにも。
考え方に幅を持たなければやっていけない多民族国家とは、日本は随分違うのではないだろうか。

日本が多民族国家になるほうが良いと言っている訳ではない。
身の回りの、あるいは自分の中の多様性を眺めていることで、次が開けるだろうと思えてくる。
勿論、これは自身に投げかけている言葉であるが・・・・・

2009年5月19日火曜日

ルチン序(★)

5月19日

★ おはよう、敏子さん


☆ おはよう。ソバちゃん


★ 今日はルチンのことをお話したいと思っていたの。

ルチンはボクの大切な性質と考えられているし、最近随分研究が進んできたし、それにね、ボクの何処に、どの程度含まれているとか、生長にしたがってどのように変わるかとか、割合すっきりした話だと思うの。
始めるには良いテーマだと思ったんだ。

☆ うーん、かもね。

★ でも、一寸聞いておきたい事があって質問します。
新型インフルエンザの日本の国内感染が始まって、WHOは警戒レベルを上げるかどうかを迷っているでしょ。日本は上げるのに対して反対演説をしているようだけれど、敏子さんはどう思うの?
ボク達がインフルエンザに掛かるわけはないのだから、どうでも良いと言えばそれまでなのだけれど・・・・
でもね、何となく、敏子さんは頭の何処かで、ボクとの関係を考えているような気がして・・・・・

☆ フフフフ  ソバのインフルエンザなんて聞いたことはないものね。
  大体、ソバちゃん達は病気の少ない作物なのよね。
  でも、よくぞ聴いてくれた!
  キミは良い子だ。

★ やっぱりね。
でも、また上手く説明出来ないのでしょう。顔に書いてあるよ。
最初は簡単なことから質問してあげる。
敏子さんはレベル6に上げるほうが良いと思っているのか上げないほうが良いのかどちらなの?
その理由はどういうこと?
どうせソババ・ヤマンバで、発言権も何もないのだから、

どうかお気軽に。

☆ レベル6に上げる。
WHOは①国際線をはじめとして、国をわたっての感染に関係すると思われる事項については、全力をあげて阻止するよう努力する。
② ワクチンの作れない国や、栄養不足で重症化が危ぶまれる国へは、国際援助のゲキを飛ばす。本気で、目を剥いてね。

★ 日本の国内感染はどうするの?

☆ 日本は日本でやります。

★ しゃー、他の国は「日本のお手並み拝見」ってことで、見ているの?

☆ そう。
でも、現状ではそんなことできないよね。
政府とか自治体の対応が適切であるとか、遅いとかいうような簡単な話ではないと、私は思う。
日本人の生き方というか、少なくとも保健に関する考え方の問題だと思う。

★ 今の安心安全は、命の安心安全への道じゃーないと言いたいの?

☆ 全部が全部ではないけれど、今の清潔観とか健康観には沢山の危険が含まれている。

★ 敏子さんの話は飛躍があて、脳の神経細胞が切れているのではないかと思うときがよくある(失礼、ゴメン、ゴメン、ソバの分際で)。
でも、ぼんやり分かるよ。
それって、すーと前に、ルチンの本を持ってきて、前書きだったか、何か、お墨付きみたいなものを欲しいと言って来た人がいて、敏子さんはゆっくり考えて断った。あの時に似ているの? 

ボクは勿体ないなーと思って見ていたのだけれど。

☆ ソバちゃんのおやつ代になるのに、と思っていたのでしょ。

★ また! 敏子さんの悪い癖ですよ。
サプリメントとか、健康食品とか言うのが嫌いなの?
あの頃、随分一生懸命に調べていて、東大の医学部の図書館へ行ったり、高い本を買ったりしていたのに。「この本の中身はほとんどが農学部系の人たちの論文を集めて、上等の紙に印刷し直しただけなのに、二番煎じは元の数倍だ」とか、ブツブツ言っていたでしょう。

☆ 変なことを覚えているソバちゃん。
心配しなくても、あの本は買わなかったよ。

ある物質がどんなときに多く合成されるとか、植物体の何処に含まれるとか、それが人間の体の代謝にムニャムニャと関係をもって、そう影響するとか・・までは面白いの。でも、その物質を沢山摂取したから良いとは言い切れない。むしろ害が多い。

★ それがエコロジカルな見方って言うの?

☆ うーん。 あんまり厳密じゃないけれど、まー、そう言ったところかもね。
エコじゃないよ。

★ うるさい。
エコはエコロジーから来た言葉だけれど、今のエコ運動にはエコロジカルに見た場合に沢山矛盾があるってことぐらい、ボクでも知ってまーす。

☆ 新型インフルエンザから、どんどん別の話題に言ったみたいだけれど・・

★ ううん。ボクは一寸判る。
新しいウイルスを取り込んで、飼いならす方法へ行きたいのでしょ。

☆ 多分ね

★ 敏子さんみたいに、雑菌一杯、訳のわからないウイルス一杯の身体だったら、ウイルスは仲良く生活を始めると言う事でしょ。

☆ 小憎らしい!!

★ でもね、やっぱり、少しずつでも良いから、ボクの身体の中で、ルチンがモジョモジョと化学反応を起こして、それと人間との関係を、何時かゆっくり説明してほしいよ。

☆ ハイ。
序論の序論みたいになっちゃったものね。
でも、今日はおやすみ。
寝る子は育つって言うでしょ。

★ ハーイ
   (自分の方が眠いくせに・・・・)ソバの独り言だよ
  

2009年5月18日月曜日

ソバの絵本(★)

5月18日

☆ 「ソバちゃんお早う。ねー、何か言いたいことがあった  の? ゆうべ寝ているのに、その尖ったお頭で、ごそごそと起こしに来たような気がしたのだけれど・・」


★ 「うん。あるのね。昨日のブログに、大全兄さんのことを書いていたでしょ。でも僕のことは何も言ってなかったので、もう忘れちゃったのかとか、見放したのかとか、いっぱい、いっぱい悲しくなったの。」


☆ 「ソバちゃんの事を忘れたりするはずあるものですか」


★ 「そうだよね。退官記念の贈り物にボクを選んでくれたものね。普通の人は論文集にするのに、絵本だなんて、面白がってくれた人も、一寸馬鹿にした人もいたけれど、ボクは嬉しかったよ。それにね、敏子さんらしいなと思った。
だのに、ブログでは何もボクのことを話してくれないのだもの」


☆ 「そうだったよね。ごめんね。
   何時でも何時でも一緒にいてくれるから、当たり前になり過ぎちゃったのかも知れないね。


★ 「いつも一緒にいるボクの、一番好きなところってどこなの?」


☆ 「可愛いところ」


★ 「うん、それは判るけれど。どんなところが可愛いと思うの?」


☆ 「多分、優しいところ。ヒトにもとっても優しいから」


★ 「でも、そのことをヒトは理解してくれているのかしら? そう思えない時も良くあるよ」


☆ 「確かにね」


★ 「それから、敏子さんはボクの仲間が皆いろいろだってことが楽しいと何時も言ってるけれど、そのこともあまり良く言わないヒトも多いようだけど・・・」


☆ 「そうよね。ソバちゃん達のよいところのごく一部しか良い点と言えないのが日本の今よね。美味しいとか、健康食品だとか、観光資源に利用できた場合とか。
でも、もっともっと隠れた大切なところがあるのにと、ソバちゃんはいいたいのでしょう。 二人でゆっくりゆっくりお話しながら、どう伝えれば良いのかを考えていきましょうよ。大全兄さんの知恵も借りながら」
★ 「そうだね。良く言ってくれるヒトも、悪く言うヒトも、いろいろの立場があるのだからねー」


★ 「ところで、一寸難しい質問かも知れないけれど、ボクには気に掛かっているから教えてほしいのだけどね。
同じソバのことを書く時でも、ブログの時と、僕のときと、大全兄さんの時とではなんとなく使う言葉が違うよね。一番違うのは研究論文かしら。
研究論文を書くときは、何でもかんでも数字に置き換えてしまって、統計処理をしてしまうでしょ。
敏子さんが数字を扱うのが好きとか、脳のどこかが切れていて、立体的な捕らえ方が下手だとか、いろいろ言っているけれど、でも、あの統計処理で論文を作るのは一寸不満だよ 」


☆ あのね、論文に書いて一応納得してもらえるのは、沢山調べて、その大体の傾向というか、一応こんな風なことが言えますと言うことなの。でも、本当に楽しいのは、それに入らない逸れ者で、その逸れ者が何を言いたがっているかを知りたいと思って、次の実験をするのよ。逸れ者を見つけて、逸れ者を調べるために、次の実験を計画するのよ。作業仮説と言うのだけれど。
多分、どんな分野の人でも、多くの研究者は、次の作業仮説を立てる楽しみで生きているのだと思うよ


★ そういえば、敏子さんと仲の良かったジョンおじさんも同じことを言ってたよね。


☆ これはとっても大切な話だから、またゆっくり話すことにしましょ。


★ うん。 あのね、医学博士で農学博士のジョンおじさんが、医学博士の方が農学博士よりとり易かったって、笑っていたような話なの?


☆ そうね。でも、オジサンは一般的に医学博士がとり易いと言った訳ではないことはわかるでしょ。


★ 近代科学の問題点とか何時いってるアレでしょ。そう言えば、テレビで、経済学にも別の視点を組み入れなければならないと言ってたよね。
そのアレよね。


☆ そう。でも、アレ、アレを繰り返していたら、ソバちゃんのアレと私の考えているアレが違ってきても、分からなくなっちゃうよね。何時かゆっくり「アレ」の定義をして見ましょうね。少なくとも二人の間の共通の言葉を確かめながら。


★ うん、わかった。
ボク達ソバ仲間の言い分をちゃんと聞くことが大切なのだと思いながら、そう表現すれば良いのかと、考えている願いながら待っているよ。

★ お休みの前に、ボク達の良いところを一寸だけ念押ししておきたいの。
でないと、眠れないよ。


☆ そうよね。私とソバちゃんが違ったら大変だものねー


★ 粉でも粒でも料理が出来るし、もやしでも良いし、葉っぱのおしたしも、天麩羅でも良いのだよね。染物にも使えるし、干した葉はスープに出来るし、昔の飢饉の時は茎も食べたんだよね、


☆ 大事なことをまだ忘れているよ。ソバちゃんが育つときにいろいろやってくれること。


★ そうなんだよね。今、エコのためのバイオ燃料に食用作物を使うのはいけないと、みんなわかってきたけれど、だから、食用にならない作物で、早く大きく育つ作物を使ったり、そのための育種をしたりすると言ってるけれど、その時、土さんが疲れちゃうことを考えなければならないんだよね。
ボクの大きな大きな役割は、そこにもあるのだよねー。

☆ 沢山の大切なお話をしてきたけれど、随分宿題を残したままよね。


★ 全部が宿題なんでしょ。
まー、良いか。
その代わり、時々呼び出してお話続けようね。
お休みなさい・
  
☆ 今夜は尖ったお頭でごそごそしないで眠れるかしら?
続きをちゃんとお約束するから、ソバちゃんゆっくりお休みなさい。
 

2009年5月17日日曜日

三日坊主 (★)

5月17日

何事にも三日坊主の山姥が、この日記を付けはじめて二週間。 青息吐息で歩いている。
三日の山場を越え得た訳ではない。
一日半程度のところかも。 いや、単に半日相当!

いろいろのことに興味があり、気移りの激しい性分で、今までに三日坊主の類は五万とある。だから、ここで止めても、何を今更めめしいことをと、怪訝な気分になる程度。
やり始めたことさえ忘れたら円満解決だ。

三日坊主は単に忘れ去るものと、後で思い出して何かに繋がるものがある。
思い出して、繋がって、心安らぐのは、後で振り返ってみた時の話だ。
後で繋がるようにと願いながら、中断を狙うとは、さもしい根性以外の何ものでもない。
ただ今、そのさもしい根性にさいなまれ中。
  
何せ厄介なのは、ソバのホームページが外に出たいと待っていることだ。
一寸薄着になって外へ出るのに都合が良いだろうと、ヤツが指図するから始めた話。
ところが、始めてみると、ブログ方からそのソバのホームページに繋げておいた方が良いし、その内容は斯く斯く云々と命令してくる。
薄着になるどころか、襤褸切れを纏いの状況になってきた。

さらに、さらに厄介なのは、ソバのホームページを立ち上げようと考えたそもそもが、私のソバ、平凡社の「そば学大全」の続きを考えたからである。
「そば学大全」のあとがきに、「そば」ではなく、「ソバ学大全」を次に書きたいと記した。
「そば」と「ソバ」では意味が違う。それはあの本の中にも書いた。
まして「大全」などと呼べるわけがない。ブツクサ言って編集者を困らせた。

ほんの一部しか書ききれず、表現の拙さは再読するのさえ苦痛で、逃げ出したかった。
事実逃げ出した。発刊日に北京から黄土高原へと。
普通ソバとダッタンソバの食べ方の違いを求めての、二十日ばかりの旅は心安らぐものだった。かなりの情報と写真を貯めて、ひと時の安堵感に浸ることが出来た。
しかし、当然のことながら、それはひと時に過ぎなかった。余りにも当然の話として、それは次の疑問を呼び、次の旅と収穫を続けて、蓄積と捨てきれないゴミの山を生んでいった。

イネは自殖性で比較的均質な環境を整え易い水田に栽培される。ソバは他殖性で、環境の均質でない畑に栽培される。両者の個体変異の程度は驚くほど違う。さらに成長するほどその違いは大きくなってくる。その故もあって、他殖性の穀物はソバだけである。
(ライムギも他植生であるが、交配のシステムがソバよりはるかに巧妙であることと、その他諸々で、ソバほどの個体変異を生じないから、ここでは除くとする)

人間は言うまでもなく他殖性で、環境はさまざまで、成育期間は比べ物にならないほど長い。年齢を重ねるほど、個体変異が出てくるのは当然ではないか・・・と、私は思う。

ソバの料理は、それらが織り成す様々の要因が掛け合わさったものだから、様々で、そこが面白い。が、方向性を見出すどころではなくなってくる。
手打ちそばの名人は、そば粉を手なずけて、常に同じものに仕上げることに妙味があるとおしやる。 なるほど・・・。 
でも、 「そうかしら?」と、一寸反論したくなる。

このように並べると、ひたすらソバを求めて歩み続けてきたようだが、そうではない。
もしそうだったら、如何な私でも・・・・・


   悔やみなさんな。
   嘆きなさんな。
   眠ったら、一寸は良い案が浮かぶよ。
   カッコウ付けて捨てたりしないで。
   投稿を忘れなさんな。
   

   God night
  God bye
 
ムニャムニャ 



それにしても、変なタイトルだねー



ムニャムニャ ムニャムニャ
グー グー ガアー

2009年5月16日土曜日

カーシャ (★)

カーシャB
5月16日

トルストイの小説「戦争と平和」にも、「アンナ・カレーニナ」にも、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」にもソバ粥という言葉が時々出てきて、どんな粥なのかと疑問に持ち始めたのは大学院生の頃だったろうか。その後、ロシア語をかじり始めて、粥はカーシャ(Ка́ша)らしいが、日本の粥とは少し違いそうにも感じられた。

その後、はじめて旧ユーゴ、今のスロベニアのリュブリアーナでソバ研究者の集まりがあった時にたずねてみた。作り方、食べ方を英語で説明してもらって、一寸分かりかけたところへ、多くの研究者の人垣が出来て、口々に話し始めた。私はまるで鉄砲の弾が飛び交う真ん中で蹲っている気分だった。機関銃やらピストルから、火縄銃やらが・・・

その会議は穀類全般を対象とするもので、ソバは会議の特別記念シンポジウムだった。だから、集まっている研究者はコムギ、ライムギもエンバクもと、対象は多様で、分野もさまざまであった。だから、ドイツ語系、英語系、フランス語系などの、いろいろの響きの言葉が入り乱れるのだろうということと、ヨーロッパの人々にとってカーシャは極めて親しい食べ物なのだろうと理解しただけで、私はただ唖然としたままだった。
その会の終わる頃、ソバだけの独立のグループを立ち上げようという話になり、国際ソバ研究者連合として成長を続けてきたが、その間に、私もヨーロッパの食べ方を少しづつ学んできた。

カーシャはロシア語が元だが、皮を剥いた穀物の粒なら何にでも用い、今ではそのロシア語が英語(Kasha)のように普通に用いられるようになった。コメもトウモロコシの粒も、コムギの粒もカーシャと書いて売っている。そして、穀物のうちでも主にソバを指すようになってきた言葉である。

カーシャは粒のまま料理したものにも用いる。製粉したものではない。

ところで、日本ではカーシャを粥と訳するうが、歩き回り、聞きまわってみると、粥といっても、「おもゆ」も、「硬い粥」もある。パラパラにまるで炒ったようなものも、ピラフ風に混ぜ物の入ったもの、お好み焼き風もパンもある。
さしずめコメの調理法の各種と言うところかも知れない。いや、これも一寸違うかもしれない。以前、日本では「イネ、コメ、メシ」と使い分けていて、稲作だったが、今は米作になったし、コメのパンは粉に挽くが、粉に挽いたソバのパンはカーシャには含まれない・・・・まー、いいか。料理の文化はややこしいのだから、このあたりでこの説明は小休止。

とにかく、かなりはっきりしているのは、カーシャの地域的な分布である。カーシャで食べるのは、ロシア、ウクライナ、ポーランドなどの北の地域で、粉にして食べるのはフランス以南である。
別の見方をすれば、コムギの栽培できないところで、エンバクならとれるところはカーシャで、コムギのとれるところは粉で食べる。

と、ごたごた書けば切がない。各駅列車はブログには適さない。
先回5月14日の「中国燕麦」で、★印をつけて、4行程度にまとめたのが上述だ。

エンバクのある中国に、ソバをむき身で食べる習慣はほとんどない。
そこで、中国のエンバクとヨーロッパのエンバクの違いが鍵になると思い始めた。
ヨーロッパのエンバクは皮付きで、製粉に適さない。燕麦栽培地帯では、皮付きで食べるオートミールのような調理法していたが、そこへソバが伝播してきて、ソバもその食べ方を見習った。
中国のエンバクは皮の無い裸エンバクだから、粉で食べる。そこへ伝播したソバも粉にする。
つづめて言えばそういうことなのだが、話はそれほど簡単ではない。

まるで「中国燕麦」の前段にも過ぎないのに、もう息切れ。
各駅停車では何時になっても終わらない。

論理的に書こうとすれば、個々の事例が失われそうだ。
一重に山姥の非力のせいだが・・

そろそろ寝言が始まりそうだ。  やばい!

メモ
またまた問題
ロシア文字がここではまだ使えない!

2009年5月15日金曜日

北欧の冬

5月15日

昨日の続きで、ソバの粒食カーシャの話にしょうと、PCの前に座ったが、何やら進まない。




カーシャ料理はロシア、ウクライナ、ポーランドなど、北欧に近いところの伝統料理である。私は一寸迷って、さらに北進し、季節も進んで冬になったのかも。




フィンランドとロシアの国境に、伝統的なカーシャ料理があるという。そして、そこは両国が国境線を決めるにあたって、村が両国に分断されてところだとも聞いた。4年ぐらい前から訪ねたいと思っているが、まだ果たせないでいる。




ソバには、そんな悲しい歴史が多く残されている。庶民たちのささやかな生活に、一人一人にとってとんでもなく大きな重荷の思い出が。



ヨーロッパの人々のソバに対する思い入れは、日本人とは一寸違うものがある。異民族支配の過去の重みなのかも。





とにかく、今日もまた北欧の冬の一日である。太陽があがる間も無く日が落ちる、あの短い一日だ。
私のブログで言えば、「お早うございます」との挨拶だけの投稿である。
しかし、ヨーロッパの文化は夜の長さの中で育てられたと聞いた。
確かにそうかも知れないし、そうありたい。



始めたからには続けたい。つまらんことに力を注いで・・と冷笑する自分がいないではない。当面はその冷笑する自分を押さえ込む工夫をしながらの継続である。
そのための手順を考えて過ごした。それが今日、私の北欧の冬の夜。

10日間、とにかく連続投稿をして、一寸疲れて、一寸楽しい状況でもある。
良かったと思えることは、テレビ、音楽、人の声など等に、不思議な新鮮さを感じるようになったこと。これが続くかどうかは不明だが、何でも良いから続けてみよう。
途中で休むのも一法だろうが、分からないことは一寸やそっとに時間では解決できない。
主にネットの使い方。
長い時間をかけて、癖のようになってしまったときに、はじめて「随分前から分かって使っていたのだ」と感じるアレ。ウェブに限った話ではない。分かって一寸安心するまでは何でも似たようなものだから、ゆっくり、のんびり、少し無理をして、楽しみながら歩きましょう。


歳をとっても、少しは変わりたいと思う自分の気持ちを冷笑しないでいたい。

2009年5月14日木曜日

中国燕麦 (★)

5月14日

 「? 」 中国燕麦をソバの話題にするなんて、バーさん朝から寝ぼけているのではないのか」と、一喝したくなるお方もおいででしょう。 いえいえ、入力ミスではござんせん。
燕麦はカラスムギ、オートムギで、中国では「ユーマイ」と呼んでおりますところの、どちらかといえばコムギ、オオムギに近い作物であります。
と、目は覚めていることをご確認頂いた上で、朝のご挨拶とさせて頂きます。
直接に燕麦の話に入り、それが何処でどうしてソバに繋がり、何が問題かと述べ始めるのは、エンジンへの負担が良くないように思えますので・・・
(勝手なことを言うババだなー、まー、無駄口の中にも重要なこともあるかもしれないから、聞いてやるか・・・)

今日の日経ビジネスのを見ていたら、中国のネット人口はいまや3億人を超え、日本の総人口の2倍に達したとの対談記事の見出しが目に飛び込んできた。内容の詳細は省くが、とにかくそれを見て、なるほど、やっぱりとすぐに頷いた。
私が中国のネット人口の爆発的増加を感じ始めたのは、去年の夏、中国の燕麦についての情報を探していた時である。その動機や情報の内容は後に譲るとして、それは何とも便利だと狂喜に等しい状態であった。
グーグルが中国上陸をやって、これほど便利になったのかと、グーグル様へのファンの程度も増した。いや、もう少し私の日常感覚に即して言えば、スーパーの品揃えが急に増え、価格は下がって、これは都合が良いことになったなーというところだったのだが・・
しかし、情報量は増えても、まるで同じ文章がやたらに多い。注意して読まないと、どれが原著か分からない。つまり、著作権侵害に当たるようなものがやたらに多いのだ。
そのうちに感を働かせて、より原著に近いものを辿る感が養われてきた頃、なるほどと思い始めた。
「それ見たことか、中国はそういう点では後進国だとか、多く海賊版やのコピー商品を作るのは中国が一番ではないか」との厳しい声が耳元に聞こえなくもなかった。しかし、そこで止めるのは性にあわない。続けることにした。ましなものが落ちているかも知れないからと、地面を探す貧乏根性というやつ。

孔子様のおしやったことや、史書や五経が著作権には当たる訳がない。その古典から現代までの区切りが付けようもない文化なのだと、一応考えることにした。そう考えれば、同じ漢字で書く単語の、中国語と日本語の違いも、ぼんやり分かってくる場合もあるではないか。
 ソバを研究しているババは料理に関心があるが、料理にどれが上だとか下だとか、旨い不味いを述べ立てるのは、好みに合わない。何故そこにそんな料理があって、そこの人はそれを美味いと感じているのかを知るのが楽しいだけだ。
 私がそこの空気も味わって、はじめて美味しいと感じる。評判やミシュランの星で決めるわけではない。

 とまー、そう言う訳で、せっせせっせと中国の情報収集にあたった。
とはいっても、それは自分の出した大体の結論をもって、中国のソバ仲間に話したいと思ったからで、予習、下調べだったのだが。

山姥が人気のない  でブツブツ言う独り言だから、世間様の害にはならないだろう。

それはさておき、蕎麦と燕麦の関係の話に入ろう。
ますここで、私が中国の燕麦に関心を寄せるようになった動機を簡単に整理しておきたい。

★ ヨーロッパではソバを粉にして食べる場合と粒で食べる場合があり、その食べ方の習慣(?)は、地域的にかなりはっきりしている、フランスより南は粉食、ポーランドより北は粒食に別れる。


★ 粉食の地域はコムギのとれる地域、粒食はライムギの栽培がやっとか、それにも適さない寒いところで、エンバク栽培の盛んな地域


★ 中国はほぼ完全に粉食である。


★ 北欧にも中国にもエンバクが栽培されているが、北欧のエンバクは皮付きで、製粉に適さない。中国のエンバクは裸エンバクで、製粉が容易である。


ならば ⇒ 中国の裸エンバク、ユーマイといわれるものは何じゃろか?

かなり前から調べてみたいと思っていたのだが、中々手が付けられないでいた。昨年の夏に暑さしのぎに、中国のネット情報検索に乗り出したわけである。
いやこれはあくまで私の貧乏根性の故と言えよう。○○の設置費用も電気代も節約して、ダダのグーグル様に依存しようとしたまでの話である。その結果、山姥の足腰には悪かったが、暑さ忘れには十二分役に立った。まー、冷房が体に悪いのと大差ないというところだろう。

おお、眠い!
まるで北欧の冬、日が出たらすぐ沈む、「お早うございます」と挨拶する時間だけで終わる今日のブログは北欧の冬並み。

まー良いか、明日という日もあるのだから。

(注) ソバの皮を剥いたもの、すなはち蕎麦米は、最近日本でも広まり始めているが、私が研究を始めた頃には蕎麦を粒のまま食べる習慣は徳島と山形のごく一部に残っていただけである。現代では蕎麦米はかなり多くの地域で簡単に手に入るようになったが、あれは蕎麦焼酎を造るための原料として、そば殻をむいたものを大量に作るための機械が開発され、そこで出来た剥き身の蕎麦が余ったのが始まりである。中国でもこのところ蕎麦米の生産が行われているが、それは日本への輸出に対して付加価値を高めるためである。このあたりの話は、今日は一応横に置いておこう。

2009年5月13日水曜日

代返

5月13日

「拝啓 ちゃんと代返を楽しんでいますか」

アンジェラ・アキの「手紙」は、歌も歌詞も歌う姿も、それを歌う子供たちの姿も、久々にとも言いたいぐらい心に響く。それを捩っては申し訳ないのだが、手紙を書きたくなってくる。

生徒たちへ「ちゃんと代返をして、笑って授業をはじめていますか?」
先生へ「生徒たちに悪戯されて、目を回しながら、反撃のチャンスを狙う楽しみを味わっていますか?」

代返なり何なりの悪戯は「さー、これから目を覚まして、先生の方を見ます」の元気なサインだろうし、そのサインを感じながら、一寸叱ってみるのは、「可愛いね。元気で良かったね」との返礼だ。
この「お早うございます」の変形が、教師稼業の醍醐味だったと思っているが、いまは変わったのだろうか?

ところで、このブログを始めてみて、タイトルのつけかたと、その「お早うございます」の変形をやる必要性とむつかしさを味わい始めている。

毎日の最後でブツブツと書くのは、立ち上がる時の「ドッコイショ」の場合と、「言い残したことがあるのだけれど・・・」に当たるだろう。「さようなら」「またね」だ。
「ドッコイショ」は、一応おくとしておこう。

「お早うございます」が上手くいかないと、書き方全体が萎縮して、当面読み返す気さえもしなくなる。
ソバについて書きたいことが詰まっていても、いや、書きたいことがあるからこそ、重い文章になってしまう。
内容が重いからこそ、軽いタッチで始めるほうが良い。
いや私の好みに過ぎないのかもしれないが。

ここで、次にソバの話を続ければ、ソバの話の「お早うございます」の変形としては長すぎる。
今日の投稿をここで終われば、ブログ全体の代返部分に過ぎない。
毎日毎日が「お早うございます」で終わるものになりそうだ・

スカッとした楽しい「代返」を考えよう。
遊びの一日があっても良いけれど、「代返」の遊びで始まる元気で真面目な日の投稿もなくっちゃー     SOBAが泣く

2009年5月12日火曜日

日本は何をしてきたのか(★)

日本のそばの原料が80%以上輸入に頼っているのは周知の事実であろう。今ではほとんどのといっても良いほど多くの食材が輸入依存型だから、ソバに限った話ではないともいえよう。しかし、その問題点を若干なりとも詳しく考えたことがあるのはソバだから・・と、一応考えておくこととしょう。

世界でソバを輸出している量は多くは無い。そのソバの大半を(?)買い続けてきたのが日本だから、極めて良いお得意さんだったことは間違いない。つまり、日本は手打ちソバで世界に貢献してきたと見えなくもない。だからソバに関係する人たちや企業から、日本はチャホヤされてきたのは当然の成り行きだろう。ソバ生産者達も潤ったのだから。

しかし、わたしは自分でソバを研究対象にするようになって、世界のソバ市場における圧倒的な日本の立場の統計表とその解説にさえ、輸出国の側の不満が底に見え隠れしているのか気がかりになってきた。

先ず私の皮膚感覚として海外のソバにかかわっている友人たちから受け取ってきた事例から示したい。
友人と書いたが、私はソバの商取引の上での知り合いではない。
1980年にスロベニアのリュブリアーナで、国際ソバ研究者連合を立ち上げたが、国際とはいえ極めて人数が少数だったから、お互いにソバ家族と呼び合っていた
その後家族の人数は増え参加国数も参加人数も増えて来たが、何やら親しく付き合い、気心が知れる関係にある。つまり、古いメンバーは元より、新しい人達ともそれらの人々あるいはその国が何を喜び、何を悲しんでいるのかが感じられる。

2001年春川で開催されたシンポで、次の2004の開催地を決める時、チェコとドイツ、オーストラリアが立候補した。その時には参加者の投票でチェコに決まったのだが、3年後チェコのプラハであった時、オーストラリアの代表者は、寂しそうな顔で、オーストラリアのソバは政府の援助もなくなったので、もう次が何処であっても、自分は会議にさえ出られないかも知れないと話していた。
詳しい話はこうである。
このオーストラリアにソバ栽培を薦めたのは日本である。夏になるとソバが品薄になり、香りも味も落ちてくる。赤道をはさんで反対側のオーストラリアやニュージーランドは、日本のソバが品薄になる夏に、新鮮で美味しいそばが供給できるから、栽培地として望ましいというわけである。
確かに、日本がそれに力を入れ始めてしばらくは、日本の国内でももてはやされ、かなりの価格で輸入していた。
しかし、遠距離を、しかも赤道を越えた運ぶのであるから、運送費が高価になり、変質の危険が高い。空輸する見本と、実際の仕入れた穀物の品質の違いが問題になってくる。結果、輸出価格は低下する。輸出の側は、品質保存の研究は元より、何とかして付加価値を上げようと加工工場の建設などに力を入れざるをえなくなる。
一方、日本の方はたとえ話を始めたのが日本の側だとしても、品質と価格を天秤にかけて、買い叩いたり、輸入量を減らしたりする。
そして、最初は力を入れていたオーストラリア政府も助成をしなくなる。

ここに記した話はオーストラリアに限ったはなしでもないし、ソバに限られる問題でもない。市場原理に従えば、起こって来て当然至極の事例である。

日本のソバの輸入をアメリカからカナダに乗り換え、中国に乗り換えてきたのが、より安いものを求めて行われてきた流れは、何も不思議ではないだろう。

そして、現地の国々のソバ栽培者も研究者もそれによって大きな被害を蒙っても、そんなものだと言ってしまえばそうだろう。

そして、ある時期には日本のお陰で豊かになった人々もいるのだから、とやかく言う必要はないと感じる人もいるだろう。

しかし、次には中国からの輸入の問題だろうと予感せずにはいられなかった。
友達のように感じる人々の悩む姿を見ながら、心痛む思いをしないではいられなかった。それは、統計を精査して予測する場合とは違う何かがあるのかもしれない。

いずれ後で詳しい話を、数値も加えながら述べたいと考えている。

2009年5月11日月曜日

立ち食いそばが消える日(★)

健康食としてのそばに対する関心が高まり、まさに脚光を浴びている現在、何をブツブツ言っているのだと、疑問に思う方は少なくないだろう。今ここで、伝統的な日本の食文化の代表一つである「おそば」が消えるかもしれないと言えば、お前はおかしいのではないかと、横を向いてしまう人も多いかもしれない。
店は多くなり、美味しいそばが食べられるようになったし、「お父さんの手打ちそば」は定着してきている。SOBAと英英辞典で引けば、Japanesenoodl と出てくる。




その今だからこそ、私は言いたい。

先日、日本蕎麦協会の理事長に「中国からの輸入が難しくなるのではないでしょうか」と言ったら、ニコニコして「大丈夫ですよ」と一蹴された「どこの情報ですか」と畳み掛けると「XXさんが、彼らは売りたがっていると言ってました」と、これまたニコニコ。XXさんとは、中国との取引の多い、大手のソバ屋さんである。
それで私の疑問が解消されたわけではない。


またここで理事長を非難しょうと思っているわけではない。

ここで、このセンセーショナルなテーマを、世界の食糧危機とか金融危機からのみ云々するつもりでもない。また、そばと言っても日本の手打ちそばだけの話ではない。それも含むが、それだけではない。

栽培植物のソバの将来が危なそうだという話であり、その前に、遠からず日本のそば安閑としてはいられない状況に追いやられるだろうとの危惧をまず伝えたがっている。

それを招いたのは日本自身ではないだろうかと。

何故私がそんな危惧を抱いているかを整理してみたいと、可能なら何かの手を打つことを考えてみたいと思うからである。

明日は「現代世界のソバ事情」から入って行くことになるだろう。



★  もったいぶらずに、ここで早く本題に入れ!

★★ そうです。私もそう思います。
    でも、相互関係の込み入った、しかも時々刻々変化するものを、立体的にとらえて表現するのは、今の私には難しくて・・・
    生まれたての赤ん坊が、こともあろうに海外の大学のゼミに出たいと泣き喚いているようなものですわ。
    そんな時には、上等のベビー服でも買ってやればよいのかしら?
    先ずはビザの申請をするの?
    いやー、多分紙オシメをどっさり買って持たせてやるのが良いのかもねー ??

2009年5月10日日曜日

「一の分類」は先送り

http://yamanba-soba.blogspot.com/

に、親戚がいるかもと、
blogspot.com で検索してみたら、あるわ、あるわ・・


カテゴリーもラベルを使った分類もある。
知らずに、無いのだろうと心配していたのは、正にアホバカ。


勿論、まだ使用方法は分からない。
何せ、最初に出てくるのは実に立派なブログか、別の理由で人気があるページで、今の私には一向に参考にならない。


今、方法を知りたいと思わない訳ではないが、無理をしても仕方が無い。


 生まれてからまだ七日。
 分類する中身があるわけではない。
 赤ん坊のために、大学の講義内容を心配するようなものと、先送りしょう。




それでも、「一を分類する」のは人間の特技で、コンピューターの特技ではないだろうと考えて、ニヤニヤしてしまう。


 これは日記だろうか?


心優しい紳士から、日記を公開する気が知れないとコメント頂いたが、日記でさえない、単なる独り言を公開するバカはさらに気が知れないと、心優しい人は呆れ果てなさるだろう。

まー良いか。
生まれて七日間、息を吸い続けるのに一寸疲れた。 


大人でも、今日は日曜日だ。

2009年5月9日土曜日

早くも家出か別居か?

独居山姥の別居とは理屈に合わないが、家出で済む話ではなさそうにも思える。

 使い始めたブログに、カテゴリーの自動作成機能がないとわかった。目次は努力をすれば出来るらしいが、プロの解説者でも、3ヶ月分の目次作成に3時間かかったと書いている。大したことではないといえばそうだが、気が重い。

 だらだらと綴る日記の方は、日毎に並ぶから、分類は不必要そうだが、そうでもない。本を読んで、ずいぶん経ってから、いつだったけ、とか、何を考えたのだったっけ?とか、思い出したい時はいろいろある。グーグルの検索機能が強いとはいえ、表題も著者も忘れた「あの・・」から簡単に探し出す手段は面倒くさい。その上、全体が一目瞭然になっていた方が、気持ちが良い。エクセルとワードのリンクのようなものとして。
 とはいえ、とにかく、こちらは「列」ですむだろう。

 山姥のやりたい事は、最初から分類を予定されたものもある。分類を後で変えるとしても。
 とにかく、こちらの方は、最初から少なくとも「面」、2次元であることを要求している。あるいはそれ以上が望ましい。
 
 そもそも人間の行動や頭の中は、時間の経過以外の尺度をいくつも持っているのか普通だろう。
 それを無料のブログで、努力なしにやろうとしたのが間違いというところだろうか。

 ウエブに上げておくと、メールの返事に長々と感想や意見を書くのも躊躇われる時、○○に書いているので、一寸覗いてみて見て下さいと伝えるのに最適だと思った・が、世の中はそれほど甘くないようだ。
 肝心の部分の指定は伝えられるとしても、その前後というか、どんなつながりでそう考えるのかが分からないようでは気持ちが悪い。
 本人が自覚している繋がりと、他から知りたい繋がりは、往々にして違う。本人にしても、時間が経てば別の繋がりをより重要視するようになる。
 縦列のみは困る。
 関係のある話題があるのか探すのに困るのは嫌だ。

 
 独居山姥は老人の長話、独り言をブツブツ言いながら、次なる方法を探している。

 ブログ形式の強みを十分発揮しているものに遭遇するから、ブログで可能なのだろうが、それにはかなりの人数の参加と編集者というか、幹事の努力がにじみ出ているようにも思える。
 ホームページ形式の方がはるかに馴染むものと、ブログ形式でやれそうなこととを、一応分けたほうが、山姥の脳にはやさしい。
 とすれば、昨年、それなりのホームページを作って中断しているものに再挑戦する方が良いのかもしれない。アップの段階でリンク切れや各部分の追加の必要性に、一寸気が重くなっていたが・・・。やっぱり、当面はブログとホームページの繋ぎをうまくする方法を考えることにしょう。

 以前に調べたときには、無料で使える容量はブログの方が遥かに大きいらしい。しかも、管理者が適当に整理してくれそうだ。
 そこでブログでまず始めようとした。
 これこそ正に、ゴウツク婆というのだろうか?

 お婆ちゃんが、下着や靴下のつぎ当てをし、古タオルで雑巾をさし、「他に何かすることはないか」と、ウロウロ探し回っていた姿は、面白くて微笑ましかったのだが・・・






 「良いブログは何人かの人と良い幹事で作られているらしいと、先ほど言っていたではないか。そのためにブログは使うもんじゃ。 ヮカットランノカー」



 「はいはい、それはずーと耳鳴りみたいに聞こえておるんでございます。ただ、英語も中国語もやっかいで、日本語さえもおぼつかない。お婆の特技はイヌ語でござんすが、それが文字に書けませんのでねー」



 「ならばオオカミ語ではどうじゃ」



 「?? !!」

今日は大型連休後の土曜日。高速も混みますまい。
枯葉マークでドライブでもすれば名案も浮かぶでしょうよ。



yamanba山姥・蕎麦婆はパンク
公開後 5月11日の白状

下記のコメントについて

第1のコメントは古い旧友からのもの。
どういう訳かメールの発信者???で着たので、コピーして貼り付けましたら、発信者が山姥になりました。
そこで、山姥は自分でコメントを書きました。匿名さんとして。
ウン、なるほどなるほど。ワカッタ! やり方は一寸わかりました。
ところが今日になってふとみると、私の心優しい旧友のコメントに誰かが暴言を投げかけているとも読めるではないですか。
頂いたコメントを貼り付ける日が違ったのはともかくとして、いかに山姥が極め付きのろくでもないババでも、旧友の心優しい紳士に対してそんなことを言うはずもございませんのに。

こんなことになるのは、神様のお叱りなのでしょうか?

困った困った。
申し訳なくて、恥ずかしくて・・・


 

2009年5月8日金曜日

一分間の老人介護の依頼中

 蕎麦婆山姥・独居ババは困ること多々。
 使い方が多様に違いないと、グーグルでブログではじめたが、いざとなるとその方法がさっぱり分からない。
 検索すれば作成方法のページはあまた出てくるけれど、まず困るのは字が細かくて読みづらい。なれない言葉が次々に出てくる。




 初心に立ち返ることにした。




 ブログを始めようとした動機を思い出すこと。



   ★ 「ねー、お願い」と、一言口にすればすぐ解決することなのに、気力が低下すると口を噤んでしまう。それを防ぐためにする、救助要請の発声練習のようなもの。
   ★ 頭の中と周辺にたまっているものを吐き出す。具体的にはソバに関るものだが。

 書きたいテーマは大きく分けると2つだろうが、それをどう進めれば良いのか。夢想はするが、具体的には進まない。



 何しろ、外からの反応の表示が、サッパリ。


 また、ふと手が滑って、設定がかわたり・・・・

 慣れるまでは、単純な操作ほど厄介なのはブログに限らないだろうけれど。



 そこで、道行く人に助けを求めるような気持ちで、旧友たちにメールでSOSを出すことにした。
 とは言っても、何しろ同世代の男性たちは真面目で誇り高いから、救いを求めるには向いていない。若い人たちは多忙を極めていて、長時間の介護には向いていない。

 とにかく、コメントに「アホ」とか「バカ」、さらには「すっぽんまぬけ」と書いて、その途端に楽しくなって笑うような人たちに援助を求めている。
 もっとも、それが中々難しい。

 皆さん真面目で優しいからなー

 がー、ここでブツブツ言っていても始まるまい。

 少しは格好の良いものにしていきたいと考えている私自身の凡念が災いしているのかも?


 反省しましょ!!






 

2009年5月7日木曜日

喜寿が傘寿に贈る賛歌

銭本三千年 様

素晴らしいブログに接して、とても幸せな気持ちになれました。
 何よりも、流れるような文章からお元気でお優しい毎日のご様子が伝わってまいりました。

 実は私は5月4日に喜寿を迎えまして、何か面白いことをと思い、ブログをはじめたばかりでございます。
ハンドルネームのyamanbaは、以前にsobabayamanba(蕎麦婆山姥)で登録したのですが、あまりにも私の実態そのものでして、自分の中の妖婆がますます増長してきて、自分を絞め殺すのではないだろうかと、改名いたしました。

 自分の中の楽しくて明るい部分を育てるものにしたいとと始めたのですが、初心者には戸惑うことが多く、ふと同世代の方のブログを参考にと思い、探しましたら、最初にお目に掛かれたのが銭本様でした。

 どこを開けても感動と同感の記事に溢れていて、ただただ圧倒されるばかりでございます。
自己紹介は何れまたゆっくりさせて頂くことに致しまして、「ロマン日記」に圧倒されてしまうまでに、楽しませて頂いたことの感想の一部を書かせて頂きます。
 「傘寿のロマン日記」で老婆が圧死・・
一寸面白そうですが、やっぱり洒落になりませんもの。





★男性の食器洗い ★
 拍手、拍手!!
 国際人の第一条件だと思います。

 何だか偉そうな批評になりましたが、実は、どっかり腰を落ち着けている男性の来客達に「アンタナー、ソンナンデハコクサイジントイエヘンヤンカー」と内心で腹を立て、来客を拒否するようになった独居ババアの言い分です。
 
★ペルシャ語の勉強★
 Itを使ってお始めになったお姿にも大喝采です。
 その利点の項目の全てに、「そうだ、そうなんや」です。

 もっとも、私は共通の言葉を持たないところで、あの手この手で意思を伝えるのを最大のストレス解消としている不心得者ですから、語学の上達は望めないのですが・・・・




★他にも多々 ★★★・・・・・
 ブログの使い方のいろいろ、なるほどと感心する点が限りなく多くございます。参考にさせて頂きたいと存じますのでよろしくお願い申し上げます。






 とにかく、ペルセポリスへの旅の準備が順調にお運びになれますようにと、お祈り申し上げます。




 遅れましたが、私俣野敏子の自己紹介は、上述いたしましたように、いずれそのうちにブログ上でさせて頂きたいと存じます。
 ご紹介が遅れますのは、ひとえに私の能力の問題でございますが、覆面は性にあいませんので、取りあえず・・

 今までの人生の半分を京都吉田山の麓で過ごし、後の半分は、桜の名所・信州伊那高遠から天竜川を越えて真西に位置する村で生活しておりまして、この後の日々はどこをほっつき歩こうかと狙っている者でございます。

2009年5月6日水曜日

高齢者の玩具・武器

日本にインターネットが導入された時、京都で一人暮らしをしていた80歳の母にそれを繋ぎたいと思った。
 母はPCを触ったことも無いく、英語も読めない。ただ外国の絵葉書が好きだった。
 その頃、時差の大きい地からの電話も、絵葉書の便りを書くのもなかなかの苦労と感じることの多かった親不孝な娘が考え付いた手段である、
 設定さえうまくやれば、キー操作3つ位で連絡が可能だろう。





「今はイスタンブールです」のメールに、パリやニューヨークへ迷い込み、近所の人に「娘は今ここです」と自慢している母の姿を想像して、不謹慎な笑いをしていた。
 実際には設定する時間が取れなくて、母は亡くなった。






 今、私自身が当時の母に似た年齢になり、インターネットは後期高齢者の玩具と武器になり始めている。





 使い方が上手いか下手かは問題ではない。
 単に、無いと日常生活に困るというだけの話である。

 さらに、老人の長話にもブログは最適である。


 そのうちに友人たちに見つかって、「禄でもないことをクダクダ書くな」と言って来るだろうか。そうだ、その時には前に立って、長々と集中攻撃をかけてやろう。

2009年5月5日火曜日

子供の日に高齢者が想うこと

今日は子供の日。
老人の日もあれば良いのにと思う。
「敬老の日がある」とおしやるだろが、それとは違う。

いまの敬老に日は、お弁当をもらったり、老人が喜びそうだとの催し物をやってもらったりの、受身の日である。自分が高齢の只中にある庶民の立てた計画ではない。
同じ高齢者と言っても、現状も、過ごしてきた時代も、家庭環境も経歴も違う。その違いを尊重しあいながら、老人が勝手にホザいてスカッと笑う日があればと願っている。
高齢化すると、若いときには感じなかったいろいろがある。体調の変化も、感じることも少しずつ変わる。 それが私にはひどく面白いからだ。

勿論、贈り物受け取るのが嬉しい人に配ることを反対してのではない。 欲しい人が十人分でも貰うのを可とする柔軟性をと、願っているからだろう。

子供の日についても似たようなことを感じる。
子供が心の奥底で夢見ていることは、とんでもなく大きかったり、ごく小さかったりの「悪戯」のようにも思う。
それがどんなものであっても口に出して良い日。
周囲の大人達は笑って応援する日。実現の方法を一緒に考えてあげる日は如何だろう。
少なくとも、大人の考える理想への道のりではないものを、共に楽しむ日であればと願う。


高速道路の大渋滞のニュースに、
それに子供を巻き込む日であってはならないと感じながら。