2009年6月17日水曜日

リトアニアのソバ(★)

6月17日

リトアニアは、エストニア、ラトビアとともに、バルト海に面した国で、近代以降三国ともロシア帝国に支配され、ロシア革命ののち、1918年に独立したが、第二次世界大戦中はソ連とドイツに占領され、大戦後は1980年までまたソ連の社会主義共和国として連邦政府の強い統制化に置かれるという、似たような運命をたどった国である。
エストニアについては6月8日に一寸触れたが、この三国の現状についてはおいおい記すことにしたい。

実は三国のうちのラトビアがソバの生産量は最大である。次はエストニアで、リトアニアは一番少ない。
「L」の付く国を取り上げるなら、ラトビア(Latvia)の方が適当ではないかとお感じになるだろう。全く尤もなご意見である。
にもかかわらず、私は今日はリトアニアにしたい。気まぐれなとお叱りになる前に、一寸お聞き頂きたい。

リトアニアは1430年頃から貴族階級はポーランド文化に同化していき、1589年にはポーランド・リトアニア共和国という政治的統一体となり、領土はヨーロッパ第一の大国となった。その後は1795年のポーランド第3次分割によってポーランドが消滅するまでポーランドと運命をともにした。

「それがどうした? ヨーロッパならその程度の話はざらにあるではないか」

ポーランドはでは当時西ヨーロッパ諸国へコムギ、ライムギを輸出して穀物庫の役割を果たしており、ポーランド国内ではソバが多く食べられていた。農民のみではなく、貴族、王室でさえである。
ポーランドの農業とその輸出がもたらした諸々については、後にポーランドの項で述べたい。何れにしても、ポーランド・リトアニア共和国の中では、ソバのレシピが成長していったと見て間違いないだろう。
これが、私の興味をひく点の第一である。

ところでその頃、地球の裏側の日本では、ソバキリが生まれる。
日本のそば切りの最古の記録は木曾の常勝寺で発見されたもので1574年である。
1643年の「料理物語」には、「めしのとり湯でこねる。又はぬるま湯にても又豆腐をすりて水にこね申す事もあり・・・」。そして、茹でるのではなく、蒸しそばであった。
売り歩くのも、棒手振り(日本の項参照)から、屋台へ、そばの専門店へと進化している。そばのたれも、味噌だれから醤油たれへ、名前も夜鷹そばから風鈴そばへ・・・

地球のあちら側とこちら側の違いは、日本はソバ粉を細い麺にする努力だったが、向こうはソバの殻を剥いた粒、カーシャの料理である。

日本では、味噌にしても醤油にしても、大豆製品が味付けに使われているのにたいして、あちら側では、ミルクやチーズなどの乳製品とか鶏卵である。

日本人がソバの香りを楽しむのは判るが、チーズの強い香りの中にソバの香りを感じるヨーロッパ系の感覚がまだ一向にわからない。しかし、この事が民族とソバのレシピを見ていくのに重要にも感じられるが・・・

とにかく、リトアニアのソバに影響を及ぼしたろうと推測されるポーランドの人々の末裔は、ソバ好きである。 
一週間ばかり後で訪ねたい。

2009年6月16日火曜日

朝鮮半島の北と南のソバ(★)

6月16日
「朝鮮半島の南と北」 

今日は「K」の付く国。Korea 
政治的には韓国と北朝鮮は違うけれど、世界のソバの立場では切り離しては語れない。
しかし、改めて別の国として取り扱うためには、現状を把握することは難しいだろう。
次回からも朝鮮半島のソバとして取り上げたい。

朝鮮半島にはソバの製麺方法は大きく分けると、押し出し麺と手打ち手きりの日本とほぼ同様の方法の二種類がある。
押し出し麺のほうが古くて、昔は「漏麺(シミョン)」といったそうである。ヒョウタンの底に穴を開け、それにリョクトウとソバの粉をやわらかくこねていれると、それから漏れ出して、麺状になるし、ヒョウタンを高く持ち上げれば麺は細くなるという原理を利用したものらしい。これは中国の「河漏」が伝わったものである。
切り麺のほうの歴史は比較的新しくて、コムギが栽培されるようになってからではないかと推定されている。
 ソバだけで打つ場合もあるそうだが、何れにしても朝鮮半島の麺はめちゃめちゃ力を入れてコシの強い麺にするのが特徴らしい。

実は、今回このような調理方法を紹介するのが目的ではない。

 下記は「旧朝鮮における日本の農業試研究の成果 農林省農業研究センター 1976」から読み取ったものである。

 ・・・・一九二〇年頃の記録でソバやリョクトウ、コムギの栽培地の分布をみると、ソバの栽培地の分布はほぼ全域にわたっているが、傾向としては北半分に多い。そして、日本の焼畑に相当する火田の分布は北に多い。たしかにソバが多く栽培されていたとうなずける。リョクトウの栽培されているところも半島の全域わたっているが、西半分のほうに多くて、ソバは栽培されているがリョクトウのないところもある。コムギは半島の南半分に多く、水田でイネの裏作として栽培されている場合と、畑で栽培されている場合がある・・・・。

 この資料を見ながら、私は韓国のソバ研究者たちのことを考えずにはいられない。
自分たちの国であったところの農業の記録が韓国にどの程度残されているのか。さらに、日本が持っている朝鮮に関する日本語の記録を、日本語が読めない若い世代に対して、日本人として何をすれば良いのか? 彼らは今どの程度の情報を北朝鮮から受け取ることが出来るのだろうか?

彼らは私にとって、大切な親しいソバ研究者仲間である。

最初から政治的な話になって恐縮であるが、先日の核実験に対する日本独自の制裁が盛んに議論されている。私はこの紙面を借りてそれにとやかく言うつもりはない。ただ、ソバの世界各地の現状と歴史を調べていると、国家権力の狭間に追いやられて、国境の移動に振り回されている貧しい農民たちがソバを守ってきたのだろうと、考えられて仕方が無い。

そして、研究者というものは・・・・・・

かなり気楽に「ソバの散歩」をと考えて始めたが、改めて、世界の歴史を見る視点をしっかり持たなければならないと感じている。

2009年6月15日月曜日

日本のソバとふりうり(★)

6月15日
「江戸の振売」

土日のダッタンソバを挟んで、前回は「イタリアのフリウリ」を取り上げたガ、今日は「J」の付く国、「Japanのふりうり」をタイトルにしたい。
まるで駄洒落に聞こえるこのタイトルは、漢字で書くと「振売」。
駄洒落ではなく、大真面目につけたタイトルである。

「振売」は室町時代からすでに行われていた物売りの姿で、天秤棒の両側に売り荷をつるして、呼び声を上げながら売り歩くものである。
この形態が最盛期を向えたのは江戸時代であった。 売り物の内容は、豆腐、油揚げ、鮮魚、干魚などなど、極めて多数であるが、私がここで「蕎麦の振売」を問題にしている。

初期の頃の「そばきり」は寺社などで振舞われる特別の食であったのが、この「振売」の中に含まれて売られるようになって、一挙に庶民の食べ物として広がっていった。
今で言うなら、ファーストフードの位置を獲得したのがこの「振売」である。

日本のソバについては語ることが余りにも多い。そこで、今後私は3つに分けて説明して行きたい。
① 栽培植物(作物)としてのソバ
② 農家、栽培者のソバ料理
③ 外食産業として成長して行くソバ
   
① の栽培植物としてのソバは、国が違っても基本は同じ部分が多いから、土日の基本講座(?)として取り扱いたい。
② の農家のそば料理は栽培される土地、風土の影響が極めて強いもので、昭和初期までは地域ごとに多様な料理法が開発されてきた。そばの家庭料理といえば良いだろう。
③ 外食産業としてと名付けているのは、そば切りが現代に「そば、うどん」の「そば」になるまでの経過にかかわる話である。さらに、80%以上の原料を輸入に頼ってきた日本のそば食がある種の国際摩擦を引き起こしている面についても触れなくてはならない。

次回からは、②と③に分けて論じて行きたい。

また、②と③が、国によってどのように違うかは、時代により変わるので、日本ほどはっきり分けられないと言うことになろうかと思うが、それはそれぞれの国の社会構造に大きく影響されるものであろうから、機会をみて、ゆっくりお話できればと考えている。

ところで、日本の麺のそばに限って言えば、農家では時間にゆとりがあるときに、おばあちゃんが打ってくれる手打ちそばであるが、近年流行の「お父さんの手打ちそば」はどちらの系統に入れるつもりなのかと問われると、はたと困ってしまう。いや、訊ねて欲しいと思っているのが本心である。これもまた後に譲るが、それまでにお考えおき頂ければと願っている。

2009年6月14日日曜日

ダッタンソバ(4)利用方法(★)

6月16日

ダッタンソバはニガソバ、苦ソバ、中国語では苦チャオ。
たしかに苦い。
日本でダッタンソバが流行り始めた十数年前、東京の老舗の蕎麦屋が作ったという黄色い蕎麦麺を贈られた。多くに人に試食してもらおうと、再度どっさり依頼したら、中に立った人に苦言を呈された。材料は勿論、打ち方の技術が大変なのに、老舗のものを軽々と要求するとは・・・と。確かに私の方が問題で、失礼であったことには間違いない。

ただ、ダッタンソバを多く栽培し、利用する国々を見てきた私には、日本の蕎麦とほぼ同じ打ち方、ゆで方で食べようとすることがどうも気になって仕方がなかったのである。

その後、ダッタンソバに対する関心は高まり、日本の中にかなり定着してきている。
しかし、ルチンの含量が普通のソバより多く健康に良いという点に着目されて始まった日本では、新品種の開発も利用方法は、普通の穀物の食べ方とは違う方法に進んでいる。

このブログでは今後も各国のソバを紹介し続けていくので、その中で詳しく述べる予定であるが、ごくさわりだけ、ここに紹介しておこう。

ルクセンブルグではクレープ状に焼いくのが伝統的であり、また、ヨーロッパの他の国々で普通ソバにダッタンソバが混入していた頃は硬いパンが多い時代で、パンと麺の粉の荒さが違うから、混入は問題にならなかったものと思われる

中国ののダッタンソバは普通のソバと料理の方法はほとんど変わらず、蒸し餃子、切り麺猫の耳たぶその他いろいろである。ほとんど苦くはないのは茹で時間が長いからだそうだ。この点に関しては後で記そう。
最も一般的なのは乾麺で、健康食として露店ででも売っているし、立ち食いそばの店にも多くの人が集まっている。しかしこれはかなり苦い。インスタント粥の方便粥は手軽に苦そば粥が作れる。苦そば茶は日本の最近流行のものと同様に見えるが、香が良くて非常に美味しい。製法をたずねたら企業秘密だと笑っていた。
また、醸造加工をするものには雛鳳酒に力を入れている。ふん酒の技術を生かして、コーリャンをベースに、ダッタンソバと生薬を混ぜ、さらに孵化寸前の鶏の卵でつくる養命酒のようなものといえば良いだろうか。雛の姿を思い浮かべなければ美味しい酒に感じられた。黒酢の原料になるが、料理に醤油より酢を使うことの多い中国料理では需要が多いのかもしれない。

ネパールでものダッタンの調理法は普通ソバとそれほど変わらない。葉をサラダ風に食べるのはダッタンソバが多くて、やわらかいからとされている。
ネパールのボテと呼ばれている品種はダッタンソバの中で唯一果皮がはがれやすく、コメの様に炊いて食べる苦くないものである。一つの限られた地域にだけ存在する、幻のダッタンソバとも言われている。

ところが、中国山西省のダッタンソバ研究所の庭に天火干しをしているダッタンソバは全部殻が割れていた。そこで食べたダッタンソバ料理が苦くなかったのも、ソバ茶が美味しかったのも、果皮が剥がれる品種だったからなのか、黄土高原の極めて強い太陽光と乾燥した空気が果皮を割り易くするのか、わからない。品種が特殊なのかと尋ねてみたら、「いや、どれでもこうだ」と返事をされて、私いは唖然とし、猛然と再挑戦を心に決めたところで終わっている。

2009年6月13日土曜日

ダッタンソバ(3)(★)

6月13日


「ダッタンソバの栽培技術と品種」

今回の土日もダッタンソバの続きになります。
何だか味も素っ気もない書き方ですが、日本にはダッタンソバについての情報が少ないと言うのか、とにかく日本に馴染みのない作物なので、一応の常識程度として目を通しておいて頂きたいと思います。
ダッタンソバが最近ではかなり流行ってきていますが、だからこそ、基本を知っておいて頂きたいと考えるのかも知れません。

★ ダッタンソバの栽培技術

普通ソバより野生に近いものだから、栽培も簡単だろうと考えられるかもしれないが、そうではない。
病気と虫害の種類は普通ソバと大差なく、うどんこ病や褐斑病(褐紋病)などの普通ソバと同じ病気にかかるが、普通ソバより病気に弱い。また発芽初期は根切り虫の害が大きい。、したがって、畑は十二分に耕し、深耕して清浄に保つ必要がある。
もう一つは収穫時の問題で、無限伸育成の程度が普通ソバより大きく、登熟の固体内変異著しいのと、脱粒性が大きいので、収穫時期の決定が難しい。これは収量性や食物としての利用場合の品質に関係するばかりでなく、種子として用いる場合にも大きな影響を及ぼす。

★ ダッタンソバの品種

これまでのダッタンソバに対する見方から推測されるように、ダッタンソバは他の主要穀物のような近代的な育種の経緯は極めて短い。しかし、広い地域で栽培されてきたから、それぞれの環境条件に適応した在来品種が多数存在する。

ネパール国内から収集した94の在来品種を粒の色と形で分類すると図○のようになり、地域によってそれらの出現頻度は異なっていて、東ネパールと中西部ネパールでは灰白色長粒型と灰白色短粒型がほとんどで、両地域ともに標高が2000m以下では長く、標高が高くなると短粒型が多くなる。西ネパールでは標高に関係なく短粒型は10%以下で、殆どが灰白色長粒型である。黒色長粒型は東と中西部の2500~3000mで見られたが、西ネパールでは3000m以上にある。
粒型の違いは最もわかり易いので、農民は品種の早晩性や美味しさなど品種の特徴を示すのに用いている。なお、翼粒型は農民たちは雑草と認識している。
この話の続きはネパールの項に譲りたい。

ダッタンソバが短日植物あるのは普通ソバと同様で、暑さに弱く、寒さに弱い作物で、晩霜と初霜をさけて栽培されるから、緯度と標高によって大枠はきまる。すなはち、高緯度ほど短日反応性の弱いものが分布しており、標高の高いところは短日反応性の弱いものが分布している。
しかし、実際にダッタンの栽培されるところは谷間のようなところだから、小地域でみれば前述の大枠は必ずしも法則的にはあてはまらない。
ダッタンソバの収量は自殖性で不受精花のない分普通ソバよりも一般に多収と言われているが、筆者らのダッタンソバと普通ソバと20数品種を供試した栽培試験で、国内での試験でもネパールでも1.5倍から2倍余りの収量を得た。


★ ダッタンソバの新品種育成

中国では地域の農業技術研究所によって、それぞれの地域に適合した奨励品種が品種育成されている。九江苦蕎、西蕎1号、川蕎1号、楡6-21、鳳凰苦蕎などであり、選抜育種、ガンマー線照射、固体あるいは在来品種間の交配を主とした方法で続けられている。

日本での最初の育種は旧ソ連から入手した在来品種の選抜で、北系一号が北海道全域に適合した品種として育成された。先にあげた中国の奨励品種の粒の大きさは1000粒重でみると、20~22グラムであるが、北系1号は16グラム程度で、かなり小粒である。

その後、随分力を入れて育種が進められているが、残念なことには一般的な利用が進まない。その理由についてはまた後で述べよう。

2009年6月12日金曜日

イタリアのフリウリ(★)

6月12日

「イタリアのフリウリ」
イタリアの次は「J」の付く国。勿論Japanである。
江戸に詳しい方なら「振り売り」と読まれて、イタリアのはずを日本の原稿下書きと間違ったのではないかと、一瞬首をお傾げになるのではないだろうか。私も入力しながら、カタカナ変換のつもりが漢字になって驚いた。
数日前から体調・脳調ともに低下中だから、やっぱり・・と、ハッとした。

ご安心ください。「フリウリ」は立派にイタリアの地名で、ユリウスのフォルム(集会場)から来た由緒ある名前である。場所はイタリア東北部のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア特別自治州にある。などと書くとなんともややこしい。
長靴の国の長靴をを引き上げるときに持つあたりといえば良いだろうか。いや、さらにややこしい。
ベニスの一寸西北といえば一番ピンとくるだろうか?

イタリアの中部と南部は冬コムギと夏はコメがとれる。北部はトウモロコシの栽培が多いと、ごく簡単に図式化すると、イタリアのソバ栽培は北部である。ヨーロッパアルプスの南麓の寒村には広くソバが栽培されていて、ゲーテを感動させたのもそのあたりである。
今でもちらほらと栽培されている。

数年前、私が見に行って、伝統の料理ピッオケリオの実演を見たのは、北イタリアの中央部あたりのテグリオだが、そこの話に入る前に、ここフリウリに着目しているのにはそれなりの訳がある。

ピッオケリオはフリウリの伝統料理でもあるが、フリウリの方が古いような気がするからだ。
テグリオからさらに東の、イタリアとスイスにまたがるコモ湖の観光ホテルのシェフに、フリウリから蕎麦打ちの名人が出向いているとか。だから、「ピッオケリオは東進したのだ」などと、言うつもりはない。

ここから後は、ソバを求めて彷徨う場合の私の感の働かせ方の話である。
歴史的なことは、勿論図書資料によるが、その場合は小寒冷期といわれる時代の人口と農業改革あるいは耕地拡大を大枠にして、狙いをつけていく。
現代の話なら、地形と気候と、そこに住む人の歴史である。もう少し具体的に言えば・・

フリウリに狙いをつけているのは、フリウリ語(Furlan)はイタリア北東部のスロベニア、オーストリアと国境を接するるフリウリ地方で話されている言語で、言語学的に派インド・ヨーロッパ語族ロマンス派レト・ロマンス語群の属する言語だそうである。
50万人の話者を持ち、レト・ロマンス語群で最大を誇るが、スイスのロマンシュ語のような公用語の地位はどこの国においても獲得していない。
これが私のソバを追う姿勢であるが、実際には中々ややこしい。
戸惑いの数々は、追々白状していこう。

私の友人に、調理化学の専門家と食物学の専門家がいる。調理化学の専門のほうは、何を聞いてもスッキリと答えてくれる。ただし、何やら現実の問題とは少しかけ離れているように感じる。食物学の方は、料理の名前や料理方法を聞いてつまらないことにこだわり始めると、「はっきりしないのが料理というものだ」と、怒ってしまう。例えば粥と雑炊の区別のようなもので、そこまでが粥なのかはっきりしないような話だ。

世界のソバを訪ね歩くと、カーシャという言葉は今後も度々出てくるが、これがまたややこしい。

話を戻して、イタリアのソバ料理については次回あたりに述べることにするが、イタリアにはカーシャ風な食べ方、つまり粒あるいは引き割りで作る料理は無いのではないかと感じている。
しかし、リゾットがあるから、ソバのリゾット風、つまりソバ粥もあっても不思議ではない。

ブツブツ言いながら、月曜日には「J」の付く国、日本へ帰ろう。
土日はダッタンソバの予定だが、それで脳調・体調は回復できるかしら??

このところ、入力ミスのチェックもやりたくない気分。ダメだなー

2009年6月11日木曜日

ハンガリーのドナウ川

6月12日

ハンガリーのソバに入る前に、何故6月1日からのブログを、各国一日の割合で毎日歩こうと思い始めたかを話したい。
それは丁度新型インフルエンザが日本にも入るかも知れないと、成田他の空港でのものものしい検疫が始まった頃である。私には国際線の検疫で止めることなど思いもよらない話だった。もし恐ろしい感染力と症状を伴うものなら、同時に国内の体制を整えるのに力を注ぐべきではないかとも考えられた。
その他にも、北朝鮮のミサイル問題などなど、日本の国際対応に多くの疑問を感じる事例が続発していた。
そして、それらは日本のものの考え方に他の国々とは違う○○があると。

ソバとインフルエンザウイルスを同じに見るわけではない。しかし、人間と人間以外の生物にとっての国境とは何かを改めて考えて見たくなったと言えるのかも知れない。

あるいは、「安心安全」の標語のもとに、輸入食糧の産地を明記したり、食味期限の表示をやかましく言ったりすることが、日本人の健康に繋がるのか。危険な食物を日本へ送ることになってしまった他国に対して、その原因を作ったのは日本ではなかったのか? 
など、個人とは、国とは何かを考えたいと始めたのでもある。

この話の続きは、また別の機会に譲るとして、今日の○○のハンガリーに入ろう。
とは言え、ハンガリーの日に、「国」の問題を考えたのには、若干個人的な意味もある。

25年前に、スロベニアとハンガリーの国境を写真に撮って、国境警察で2時間あまり拘束されたころがある。この話を単に私が不注意だったからとお叱りにならないで頂きたい。ほぼ同じ頃、ほぼ同じ地点で、日本の著名な写真家が国境警察にフイルムを露光されてしまったのだから。
ここで私が言いたいのは、「私は日本人だから、国境なんて海の向こうの地平線としか感じられない」といったときに、その警察官が「それは予想できる。でも我々の国の状態も考えて欲しいのです」と言った会話である。
結果としては、私のフイルムは露光されずに手元に残り、二人で大笑いをしていただけの尋問だったが、

 実はこの国境警察の話は、ドナウ川に広がる平原のスロベニア川のソバ畑を見に行った時の話である。
 「プスタ」と呼ばれるハンガリーの大草原の西の端は、スロベニアの首都リュブリアーナまで広がっていて、そこには、ソバ畑、トウモロコシ畑など、スロベニアの穀倉地帯となっている。このことは、何れスロベニアの項で記すとしよう。

 ドナウ川はドイツのライン川、あるいはポーランドのビスワ川のように一国を流れる川ではない。ドイツのシュヴァルツヴァルトに源を発し、オーストリア、ハンガリーなど、18の国々を流れて黒海に注ぐ。ドナウは正に中部ヨーロッパとバルカンの川であり、古来オリエントとヨーロッパを結ぶ東西の架け橋とも言われてきた。
しかし、一方では沿岸地域に極めて多くの民族、宗教が錯綜して、そこに繰り広がれれた戦争の軍用道路の役も果たしてきた。

ハンガリーの歴史もまた複雑である。
それに深く入るには、若干疲れている。
次回は、ハンガリーの大平原を中心に繰り広げられてきた農業の視点から見て行きたい。

明日は[I]の付く国へ


 

2009年6月10日水曜日

グルジア 夢の里ノソババ(★)

6月10日
「グルジア 夢の村のソバ」

25年近く前、ネパールからインド、パキスタン、中央アジアの国々を経て、コーカサス山脈の西を通り、トルコへぬけるルートでの調査を計画したことがある。アゼルバイジャン、グルジアはどうしても通って見たかった。アジア起源の作物の西進を追いたかったからである。時期が悪かったとしか言いようも無い。パキスタンのカイバル峠さえ越えられず、あとはピョンピョンと飛行機で飛んでしまった。

それ以来、コーカサスの南の国はあこがれのままに残っている。

グルジアからロシアへ抜ける道は世界的にも有数の美しい道だと言われている。軍用道路として広がられ、悪名高い道ではあるが、その道からかなり離れれば、ソバの里があるだろうと推測される。コーカサス越えの辺りは、トルストイをはじめとして、多くの芸術家が霊感を受けたとも伝えられている。

歴史も民族も極めて複雑で、こんがらがってばかりである。
やっぱり、その地に滞在して、顔を見ながら生活すれば、少しは理解できるのだろうか?
夢でも良いからいくことにしょう。

本気でいってみなかれn

ソバは北西部の山手にあると思うのだが・・・

2009年6月9日火曜日

フィンランド セリアック病とソバ(★)

6月9日

今日はFを頭文字に持つ国。
フランスのクレープを食べようと昨夜から期待しておいでだったかしら?
ごめんなさい。
今日はフィンランド、先日のエストニアの北の国からです。
フィンランドの現状を見て回る前に、5年前の夏祭りに来た時の状況をお話しておきましょう。

ルオベシはフィンランドの第二の都市タンペレから北へ約七十五キロ、森と湖の国の名にふさわしく網目状に広がる湾の一つに面して、ひっそりとたたずむ港町である。ノイタカラヤット(魔女裁判)という祭りを見に出かけた。ソバの栽培面積が日本一の町、北海道の北端近い幌加内町の人たちが、そば打ちの実演に招待されていたので、私は応援かたがたの見物である。

ノイタカラヤットも、北欧の各地で夏至の前後に行われる夏祭りの一つである。いかにも農村の祭りらしく、地元の野菜の他に、衣類、台所用品、子供たちの喜びそうな菓子や食べ物の露店が並んで賑わっていたが、その中で幌加内の人々はソバ打ちと獅子舞をやった。はるばると日本からの出店に、集まった人々は勿論大喜びであったが、「二八そば」よりもソバ粉百パーセントの「生そば」に人気が集中していた。

最近、日本国内ではソバ粉百パーセントで打つ「生そば」が人気上昇中だから、フィンランドでもそうなのかとお感じになるだろうか。彼らもコムギ粉の入らない食感を好むのだろうと。 いや、違う。コムギ粉のグルテンが問題なのである。と書けば、例のセリアック病のことかと気づかれるかも知れない。
それについては後で記させて頂こう。デパートの食品売り場ではグルテンフリーのコーナーがあり、アメリカから輸入したソバのカーシャを何種類も売っていた。

フィンランド国内でのソバ栽培もごく最近になって注目されはじめている。古くはロシアとの国境近いカレリア地方で栽培されていたが、一九四四年のフィンランド・ロシア紛争で、ソバ栽培の盛んであった東半分がロシアに所属するようになってから、フィンランド国内では栽培されなくなっていたそうである。

ところで、ヨーロッパでは栽培されるムギ類は、コムギ地帯から北へ向かってライムギ、オート、オオムギ地帯へと移行する。コムギとライムギは果皮がはがれ易くて粉になり易いから粉食になり、はがれにくいオオムギとオートは粒状で食べるのが伝統的である。ソバはそれらのムギ類より後から導入された作物で、粉食はコムギ、ライムギ地帯に、粒食はオオムギ、オートムギ地帯に分布していると言えるだろう。

ヨーロッパのソバの生産量は二十世紀後半には急激に減少してしまった。その理由は勿論ヨーロッパ農業の近代化の結果だろう。ソバはコムギをはじめとした生産性の高い穀類に及びもつかないからである。ところが最近になってヨーロッパでも若干生産量が増えてきており、また輸入も増加してきている。その理由は日本と同じように飽食の中での健康食、機能性食品としての認識、さらには食の懐古趣味もあるようだ。しかし、それだけではないことは、先にフィンランドの例で示した通りである。そして、これは日本には見られない現象である。もう少し詳しく述べたい。

セリアック病は小児期、ことに離乳食の穀物によって激しく発症し、多くの死をもたらす。腸で栄養分を吸収するための絨毛をすり減らし、栄養を吸収する機能を失わせるから、下痢、脂肪便、体重減少、全身衰弱を引き起こすものである。しかもこれは遺伝的な病気で、一時的に快方に向かっても、一生付き合わなければならず、大人になっても新たに発症する可能性ある厄介な病気である。

セリアルは穀物の意味ではあるが、この場合の穀物はムギ類である。コムギの害が最も大きく、ライムギ、オオムギ、オートと続く。グルテンはパンを作る場合の展性と粘性に必要で、膨らみ方に関係するから、パンになりやすいもの、つまりグルテン含量の多いものほど害が大きい。横道にそれるが、日本で上質とされるコムギ粉は、グルテン含量の多いものを指し、農水省の研究機関でも育種目標の第一はグルテン含量である。

パンをはじめとして、パン粉をまぶした食品、クリームソース等の料理に使うコムギ粉は勿論であるが、コムギ粉はソーセージ類の点着剤、薬の増量剤や各種の健康食品のタブレット、さらには缶ジュースの中にも含まれている。こうした多様な用途の開発はコムギの栄光ある歴史といえるような気もするが、セリアック病からすれば、少量のコムギも摂取できないのだから、日常生活が危険に満ちていて、特殊の食堂以外での外食はできないとされている。

セリアック病で食べられる穀物にはトウモロコシ、コメ、ソバ、キノアなどがあるが、それらの多くはヨーロッパ、ことに北欧では栽培出来ない作物で、伝統的な食文化の成立していないものが多い。そのためにソバへの注目が集まる結果になるのだろう。もっとも、ソバもダメと記されている場合も散見される。ソバにはグルテンは含まれてはいない。最初、私には何故なのか解らなかった。やっと見つけたその理由は、ムギ類の混入の危険にあるとのことであった。製粉機に残るコムギ粉の混入、畑で雑草として混じってしまう麦類などが問題なのである。ことに輸入の場合は危険だとしている。

オートもセリアック病を引き起こす。しかし、グルテン含量はコムギやライムギに比べてはるかに低い。オオムギも同じことが言えるだろう。そのオートとオオムギの伝統的には粒食の地域で、セリアック病のサポートセンターが多い。何故なのだろう? セリアック病の研究論文の中に、数年前にはこのことを考える論文がかなり見られた。民族の狩猟や農耕の歴史と病気の関係のような、若干漠とした話である。しかし、病気のメカニズムに関する最近の輝かしい研究の発展は、それらを影に押しのけてしまったようにも感じられる。私自身は栽培生態学が専門であるから、数少ない種類の作物や品種の地域広大は、栽培作物の生産性や気象条件に対する安定性の面からは何時も大いに心配する。しかし、それが人間の病気にどうかかわるのかは、どうも筋道がよく解らない。とはいえ、生産や加工の効率だけで、栽培作物や飼育動物を均一化する危険を痛感する。

ヨーロッパやアメリカ以外でも、パンを食べる国々ではセリアック病の問題は重要らしく、南半球のオーストラリア、ニュージーランド、ブラジル、アルゼンチンなどにもあって、それらから日本のソバの食べ方を教えて欲しいとメールが来る。しかし、日本の誇る「生そば」をその人達が打てるだろうかと、戸惑ってしまう。パンを作るための製粉器具は麺のばあいより荒い。幌加内町の人が、フィンランドのソバでは打てないから、もっと細かく挽くようにと現地の人に教えていた。その優しい姿に心打たれて眺めながら、私は「ここは細さや香りに目の色を変えている今の日本ではない」と言いたくて、うづうづしていた。

ヨーロッパで広く言われる言葉「白の三悪」は、オートの国にも大きな影を投げかけていると、改めて感じた次第でした。

あれから5年、セリアック病のための食事の研究も大きく進歩したようですから、ソバに頼ることは少なくなったでしょうか。

2009年6月8日月曜日

エストニアのソバが食べたい(★)

6月8日

来年の7月下旬、モスクワの南アリヨールで、第11回の国際ソバシンポジウムが開催される。今回は是非ともペテルブルグへと思っていたから、お隣のエストニアを訪ねない手はないだろう。

 エストニアにはかなりのソバ畑があるようだ。
 ソバの立場から見ると、北の国で一番気になるのは生育期の長さと日長である。
夏至の日の日照時間は19時間、冬至の日は逆に6時間しかありません。5月上旬か
ら7月下旬にかけて「白夜」と呼ばれ、深夜でも真っ暗になることはありません。
よほど日長反応性の弱い品種でなければ育つまい。

1番寒さの厳しい2月の気温は -3.5℃~-7℃、日の1番長い6月は16℃~20℃
になりますが、エストニアの気候は北海道とそう変わらない。
 北海道の幌加内町が日本一のソバ栽培地だから、北海道へと気楽に思えばよいだろう。

エストニアには1,500以上もの島と1,000以上もの湖があり、さらに国土の半分が森に覆われているそうだ。国土はほぼ平坦で、自然の豊かな国で、ヘラジカ、イノシシ、クマ、オオヤマネコがエストニアに生息している主な哺乳類。
これもまた素晴らしいではないか!

 ところで、私がこれまで歩いてきて感じているのは、民族料理には、そこの自然と歴史的に作り上げられてきた庶民の生活様式が常に反映している。
 北海道のソバ料理はあまり特殊なものが無いように感じられた。多分、北海道にソバが広く栽培されるようになってから未だ日が浅いからだろう。
 海に面していて、魚が豊富で、狩も盛んなところのソバ料理なら、さしずめ日本の東北地方の海岸近い村に残る料理ではないか・・・などと、想像してしまう。

 ものの本によると、19世紀の終わりまで、まともに食事をするのは日に1度夕食時だけで、そのときカーシャかパフリョーフカ(野菜スープ)が出されたとのことである。
 最も普及していた料理が、大麦の挽き割りで作るパフリョーフカだった。それは少しの牛乳を入れた水で煮られたが、それも主婦の気前次第だった。時には、わずかな脂やバターが入れられた。パン、塩漬けにしんと一緒にパフリョーフカを食べた。
 エストニアの北部や西部では、水曜日と土曜日毎に夕食に添えてカーシャが出された。この日を首を長くして待っていた、カーシャは美味しい料理の一つと考えられていた。

 ここで紹介されているカーシャはソバのカーシャではないだろうか?

丁度同じ頃の東北の農村の姿を思い描いてしまう。

 日本の食生活は、おしなべて豊かになったようであるが、「手打ちそば」だけが日本文化の象徴のように言われると、私はソバに申し訳ない気がしてしまう。
 こんな話は、日本の項で細述しよう。

2009年6月7日日曜日

ダッタンソバ入門(2)(★)

6月8日

イスタンブールの街は如何でしたか?
ヨーロッパのソバの歴史にとって東西の交流は大きな意味を持つものなので、イスタンブールの空気を味わっておいたのは良かったと感じる日が近いかと思います。

一応、今日はダッタンソバ入門の続きをお話しすることに致します。

その前に、
私には日本にもっと早くからダッタンソバ(ニガソバ)が栽培されていても不思議ではなかったのではないかと思えるのでして、「日本のソバの七不思議の一つ」に思えるのです。一寸心に留めて置いて下さいね。

● ダッタンソバの種実


普通ソバが三菱形をしているのに対して、ダッタンソバはムギやコメのような丸い型をしており、殻と呼ばれ果皮がはがれにくい。これがダッタンソバを苦ソバと呼ぶ苦味にもとである。
そのほか、葉の形は本葉は心臓形で上に行くほど尖ってくるのは普通ソバと同じであるが、一般に少し薄くて柔らかく、葉の表面に毛が殆どない。
また、草丈はダッタンソバの方が普通ソバの1।2~1.3倍程度高いものが多い。


● 起源と伝播


ソバ属の主なものには普通ソバとダッタンソバ、宿根ソバ3種があるが、何れも中国の南西部の貴州、四川、雲南あたりの山岳地帯で起源したと推定されている。
そのうちのダッタンソバは、シベリア、インド北部、ネパール、ブータン、中国北部、東北部、北鮮、韓国、カナダ、アメリカなどに分布しているが、自殖性だから野生で残るものもあるから、普通ソバよりもかなり広い範囲に分布している。しかし、起源地の中国南西部からこれらの地域への伝播の経緯については、普通ソバよりさらによく解らない。
例えば、旧大陸の中では最も新しく伝播し、記録も揃っているはずのヨーロッパでさえもはっきりしていないのが実情である。1730年代にヨーロッパのいくつかの植物園で収集されており、大体その頃に雑草として種子が普通ソバに混じって伝播して、環境不良な地域でダッタンソバのみが生育し、栽培されるようになったのではないかと推定されている。とにかく、ヨーロッパへは普通ソバより2、3百年ばかり遅れて伝わったようである。また、当時はヨーロッパの寒冷と食糧危機の時期にあたり、開墾地で栽培されたようである。
では、最近の数十年はどのような扱いを受けて来た作物だろうか。いくつかの事例で示そう。
ヨーロッパではルクセンブルグの西北部イスレクという開拓地に今も栽培されていて、来年にはダッタンソバのソバ祭りを計画している。しかし、他の国々には今はもうほとんど残っていないようである。スロベニアの場合には、25年位前までは、普通ソバの畑に20パーセント程度までは混入していても無害なものとされていたが、現在では混入は殆ど見られない。カナダの東部へはヨーロッパから導入されて、飼料作物として盛んに栽培されていたが、いまではここでも雑草の扱いを受け、防除の研究が盛んに行われている。
また、現在最も生産量が多く、研究にも力を入れている中国でさえも、政府によって栽培禁止令出された時期があったとも伝えられている。
これらを総合すると、日陰の作物として生き続け、最近健康食の名のもとに、急に注目を浴びてきているのがその運命と言えるのではないだろうか。


● 栽培地の分布と環境


ネパールについては、4,5日後に詳しく紹介しますが
南部に広がるテライ平原を除けば、ほとんどの地域で普通ソバもダッタンソバも栽培されているが、地域によってその比率は大きく異なる。東部に普通ソバが殆ど栽培されていないのは、モンスーン地帯の西端に近いこのあたりでは、開花期の雨が昆虫の行動を抑制し、受粉を妨げるのが大きな要因の一つと考えられる。
なお、亜熱帯のテライ平原でも普通ソバの栽培が若干見られるのは、ソバを好む山岳民族が最近になって移住してきたためである。

中国のダッタンソバの栽培地は、先日一寸紹介しましたが、雲南、四川、貴州、チベットと甘粛、きょう西、山西省などで、標高が1500~3000mの高標高地帯の寒い地域に分布する。普通ソバとダッタンソバの分布を比較すると、図からも明らかなように、普通ソバがきょうせい省の山岳部を境として北に多く分布するのに対して、ダッタンソバはそれより南に多い。これはネパールの場合に言及したように、栽培時期の降雨との関係が大きいのかも知れないと推測される

また明日からの旅、Eの頭文字の国ですが、どこだと思いますか?

2009年6月6日土曜日

ダッタンソバ入門(1)(★)

6月7日

イスタンブールでエーゲー海を眺めながらの休日をとることにしました。
ソバの旅には直接の関係は無さそうなのですが、世界を見る目を養うためには良い時間になるだろうと思いながら。
トルココーヒーを飲みながら、今日はダッタンソバの話をしょうと思います。
ブータンの農民の間には、普通のソバとダッタンソバを一緒に播くと、何年かの内にダッタンソバだけになるとの言い伝えがありましたよね。
中国では、普通のソバとダッタンソバでは、栽培地域が違う。
こうした話に対する理解を深めるために、そして、今後度々出てくるダッタンソバを身近に感じられるようにと考えた、入門の講義です。


● ダッタンソバとは

最近健康食の一つとして脚光を浴びてきているダッタンソバを、植物の側面から見るのがこの一節の内容である。それを一言でいえば、「手打ちそばを作る普通ソバの親戚で、従弟か、はとこのようなものだ」と言ってしまえそうなのだが、それでは余りにも芸が無い。もう少し詳しく書いてみよう。
ダッタンソバはこれまで日本に栽培された歴史はないが、世界的に見れば分布の広い農作物である。そのダッタンと筆者の出会いは30年余り前、ヒマラヤのエベレスト街道に始まる。ネパール語でパーパルはソバ、ミトは甘いとか美味しい、チトは辛いとか苦いの意味だから、ミトパーパルは普通ソバ、チトパーパルはダッタンソバを指す。カトマンズで、エベレスト街道の高いところにはミトパーパルがあると聞いて出かけたが、登れど登れどあるのはダッタンソバばかりだった。そのあたり、ソルクンブ地域には普通ソバは無くて、ダッタンソバのなかの美味しいものをミトパーパルと呼ぶのだと、後になって知った。
何ともややこしい話を始めたようだが、これは普通ソバとダッタンソバの関係を示す象徴的な話でもあったのだと、その後、世界のダッタンソバを調べながら強く感じるようになった。

● 植物としての特徴

○ 自殖性のソバ
普通ソバもダッタンソバもソバ属に属し、近縁の植物であるが、両者の植物学的な違いのうちで最も大きなものは、前者が他殖性、後者が自殖性である点である。
普通ソバは雌しべがおしべより長い長花柱花と、雌しべの方が短い短花柱花があり、それぞれは別の固体についていて、形の違う花どうしで受精する。ダッタンソバはどの花も雌しべとおしべの長さは同じで、自家受精する。
ダッタンソバの方が花びらの大きさは小さく、色は薄緑や黄色、ピンクなどいろいろあるが、いずれも目立たない。虫媒で受精する普通ソバのように虫をひきつける必要がないからとでも理解しておけばよいのかも知れない。英語ではグリーンソバとも呼ばれるのは、この花の目立たなさによるのだろう。

ドイツのソバはBuchweizen(★)

6月5日

楽聖バッハはソバを召上っていただろうか?
日記にその記載が見つかった訳ではない。何かの証拠がある訳ではない。
それにも関わらず、私はイエスと答えたい。

バッハはワイマールの宮廷音楽師だったが、本人はお酒好き、最初の奥様との間の子供は7人、次の奥様との間には12人、それなりに生活は慎ましかったのではなかろうか。
勿論、これは現在の庶民の感覚であるから、いますこし置いておこう。

同じワイマールの宰相だったゲーテは、アルプスのブレンナー峠を越えて、その南麓に広がるソバ畑に痛く感動したと、「イタリア紀行」に記している。ゲーテにとってソバは親しい作物だったと推測されよう。

(バッハが活躍したのは18世紀前半、ゲーテのブレンナー峠越えは1786年である。)
   。
遡って見てみたい。
ドイツにおけるソバの最初の栽培の記録は。14世紀末である。それより早くからあっただろうとの説もあるが、その詮議はここでは止めておこう。

1602年に発刊された「新農業」という本には、在来の一般的なパンのほかに、戦時下のパン、飢饉の時のパン、新素材のパンなどを網羅し、それらの作り方も添えた一般書である。全部で80種類近いパンの種類が記載されているが、ライムギパン、コムギパン、スペルタコムギパン、オオムギパン、エンバクパンに続いてソバパンが挙げられている。
なお、この本は14世紀にイタリアで出版された本のドイツにおける改訂版であり、ソバはドイツ改訂版に初めて見られるものである。

ところで、18世紀のヨーロッパは、人口の増大とそれに伴わない食糧生産と飢餓、そして農業発展を繰り返したとされている。代表的なものを上げると、1709-1710年のヨーロッパ全体の飢饉。1739-41年のフランスとドイツの飢饉、1741-43年は南ヨーロッパを中心の飢饉、1771-74年は北ヨーロッパを中心の飢饉であった。飢餓の世紀とさえ言われる。
しかし、飢え死にしたのではない。この世紀にも人口の増加は続いていた。解決方法としては、耕地の拡大と新しい生産技術の開発をもたらした。

こうした状況の中で、ソバが主要な役割を果たしたというのではない。食料不足の中で新しい作物が登場し、イネ、トウモロコシ、ジャガイモなどである。ソバはそうした作物に混じって、そっと支えてきた作物だった。たとえば、開墾地に最初に栽培の可能な作物として、あるいは畑の空く期間が短いときに栽培する、あるいは茎も葉も食べられる野菜として・・・あくまでソバはそっと傍に寄り添って生きてきた作物であることには違いなかったろう。

飢餓の世紀をもたらしたのは、地球全体の寒冷化がより大きな問題であろう。
日本の18世紀は天明の大飢饉を始めとして、大小の飢饉とそれに伴う百姓一揆など、多くの社会不安をもたらしている。

これらから、バッハがソバパンを召上っていても、さして不思議ではないと私は考えることにした。

ところで、18世紀のドイツには、バッハ、ゲーテの他に、   多くの楽聖も文人達を輩出した。バッハ、モーツアルト、ベートーベン、文学ではレッシング、ヘルダー、ゲーテ、シラー、そして哲学者カントと、ドイツ学芸の花開いた時期に、ソバの栽培が最高の年代が一致したと言う、偶然かもしれない事実を、ふと、偶然ではないと思いたくなる。

ドイツのソバ栽培は18、19世紀がピークで、20世紀に入ると、ドイツのソバ栽培はどんどん減少した。

先日のアメリカの話の中で、ソバはヨーロッパからの移民がもたらしたものだと述べた。19世紀末のアメリカの民族構成をみると、ドイツが最多である。アメリカへソバの種とドイツ風のソバパンをもたらしたのだろうか? 
次回アメリカのソバ料理を見るときまで、心にとめておこう。

2009年6月4日木曜日

中国のソバは蕎麥(★)

「中国のソバは蕎麥(莽麦)」
6月4日
ここは西安の中心、鐘楼。シルクロードの基点に近接している。

旅のツレ 「折角中国へ来たのに、何を浮かない顔をしているのだ?」
案内人  「うーん・・・ 今日一日で中国のソバの何を紹介すれば良いかが判らない」
旅のツレ 「そんなことは最初から判っていた話ではないか」

そう、確かに判っていた。中国は世界第二のソバ生産国であり、日本への輸出量はダントツに多い、そして、栽培ソバの起源地で、栽培の歴史は最も古く、現在の文献も世界最多などなど・・
もしそれらを加味して日程を組めば、おそらく中国から出られなくなるだろうと予測して、どの国も一回は一日で全ての国を回ることにした。
その計画に、後悔しているわけではない。

また中国の中で、ここ西安に最初に来たことは意味があったと思っている。
甜莽すなはち日本で食べる普通ソバは、このあたりより北の地域に多く分布しており、苦莽、最近はやりだしたダッタンソバ(ニガソバ)は、このあたりから南に分布している。
世界的な視野に立って、両種の栽培環境を検討する場合にも、食文化を比較する場合にも、この地に立つ意味は十二分にあると考えている。

がー・・・・

旅のツレは突如
      「何度来ても良いけどなー、
       「オマエ、チュウゴクゴガワカルノカ? 
       ソコガカンジントチガウカ!」
案内人  「何と申しましょうかしら?」
       「中国のソバ研究の大御所二人、古くからの 友人でして。でも二人とも日本語も英語も ダメなんです。」

ツレさん   「ボクのホウガハルカニマシダ。
        あんたも日本で中国語を習えば?」

案内人    「中国語ガ上達しないのは発音からしっかり勉強しないからだ、との日本の外国語教育は私には役に立ない。  まー、諦めて付いて来て下さいな。 その内に私の腕をお見せ致しますから」

(案内人の独り言; 途中で詰まらん質問するから疲れる)

頭に来てしまった案内人は、次の文を手渡して眠っちゃいました。
案内人が悩んでいるのは次の文の最初の2行の中身。中国語ガ一寸判るぐらいではダメなんですよねー
中国の歴史を知らなければ・・・・・

在我国古代原始农业中,甜莽有极重要地位。历代史书、著名古农书、古医书、诗词、地方志以及农家侄语等,元不有关于莽麦形态、特性、栽培和利用方面的记述。自古以来,我国人民以葬麦子实磨面制成悖悖、煎饼、汤饼(河漏)等作为食品,茹食嫩叶;以轩辟虫;干叶、皮壳、碎粒、葬款以及茎
轩作饲料;茎轩垫圈、讴肥; 皮壳、茎轩的灰分提取碳酸钢等工业原料,花和叶提取芦丁作医药
原料s 此外,甜葬还是我国的重要蜜源作物和救灾作物。
甜养生育期短,是很好的救灾填闲作物。1954 年,长江流域遇到了特大洪涝灾害,国家从内蒙古等地向灾区调去了甜莽种子215∞t ,在湖北、安徽、江苏、河南等省种植,发挥了很好的
生产救灾作用。内蒙古、山西、黑龙江、甘肃等省区有计划地收购储备葬麦种子, 20 世纪50 年代,国家在每年数量在5∞010∞Ot ,并作为一项制度保持了较长时间。
20 世纪50 年代以后,随着耕作制度的改革和农业新技术的推广,各种粮食作物在实行精耕细作后,产量都有了突破性的提高,甜莽的产量虽也有所提高,但远不及其他粮食作物增产幅度大,加上其他原因,甜葬种植面积逐年下降。据不完全统计,目前全国20 省区甜葬种植面积约54.6 X 104hm2 ,总产约30 x 104 t ,食用约占60% ,外贸出口约占30% ,自留种子约占10% 。

案内人は夢をみておりました。
最近の中国の出版事情や古文書解読の技術の進歩、ネットの普及の凄さに圧倒されながらも、楽しんでいるソバ仲間たちとの会話の・・

2009年6月3日水曜日

ブータンのソバ(★)

6月3日




ここはブータン。平和の竜の国。

頭文字がBの国で、ソバが栽培されている国にはBrazil, Belaruce, Belgy,など、他にもあるではいか。
ことにBrazil は生産量がアメリカに次いで多い国で、日本が輸入している国ではいかと、疑問にお思いになるだろう。
しかも、ソバという単語を書けもしないのに・・・・

そうなのです。確かに、ごもっともなご指摘です。
でも、顔も着物も日本に非常に似ていて、コメを食べ、ソバも多いと、日本人にファンが多い国であることも確かでしょう。

その類似性を説明する一つとして、照葉樹林文化論が風靡した日も遠くない。が、私はここでその是非を云々するつもりはない。今のところ、先ずブータンのソバを紹介しょうとしている。

でも、昨日はアメリカ、今日はブータン
まさか時差ぼけでも高山病でもあるまいが、同じソバでもこれほど文化の違うところのソバを紹介するのは大いに脳の混乱を来たしている。
それでも、2つだけ重要なと思うことを紹介しておきたい。

 ブータンには稲作が多く栽培作物の中では最も重要なものである。標高2700メートルまで栽培されていて、世界で一番標高の高い稲作だろうとされており、赤米を栽培している。ちなみに日本の稲作の最高地の記録は1300メートルあまりである。イネをつくるチベッタンともいわれる人びとの国である。
 しかし、2700メートルを越えるとさすがに温度がさがり、コメはできなくなって、オオムギや雑穀の地帯にかわる。そこで重要視されてきたのはソバで、ダッタンソバがふつうのソバと混播されている。
 ブータンの農民は、ふつうのソバを連作するとダッタンソバに変わると信じているのだそうである。実際は二つの種が簡単に交配することもない。植物学的に説明すると、ふつうソバの開花期が雨に遭遇すると虫の訪花が少なく、当然自殖性のダッタンソバの稔りの率が多くなる。単にそれだけの話である。
 「そんな説明ではヒマラヤのロマンが薄れそうだ」とお感じになりませんか?
 私も、何かもっと素敵な説明がないかと探しているのですが・・・・



 ダッタンソバについては近く説明したいと考えています


 ただし。味も素っ気もない自然科学的な説明ですが。

 


もう一つ、世界を歩くためには、頭をからっぽにしておかなければという話。
1995年の信大で開催した国際シンポジウムにブータンのKさんが出席してくれた。しかし、出席したと一言でいえるような簡単な話ではなかった。手紙とファックスで連絡を取り合い、時間がなくなる頃には電子メールに代わったのだが、返事を書いても返事が来ない。でもまあ、その程度のことは国際シンポジウムともなればあきれるぐらいに頻発していたから、大した話ではない。
 Kさんは成田でスタッフが出迎えたのは確かだが、東京で待ち構えていたスタッフから見当たらないとの電話が入った。つまり、到着直後に行方不明になって私たちをオロオロさせた。ところが、会場の準備を進めていたところへ、ヒョコッと現れた。他の人たちが乗ってきた指定のバスの到着予定の時間よりかなり早く到着したのである。
どう計算してみてもその時間で長野県の伊那へ着くことはできない早さである。
その理由の詮索はともかくとして、「山岳民族が山を走ると自動車より速いんだよね」と、スタッフの一人がいって皆で大笑いした。

この解釈をどうお思いになるだろうか?

今日はメモにブータンの諸事情を残したままで終わらせて頂こう。
いつかこの続きを追加として書かせて頂く事をお許し頂きたい。

明日は頭文字が「C」へ

2009年6月2日火曜日

アメリカのソバはBuckwheat (★)

6月2日

今、ここはニューヨーク

ソバを栽培している国で頭文字がAの国は、America以外にも少なくとも、 Austria, Australia, Azerbaijan, Armenia, Albania , Afghanistanなど多くあるのに、何故またアメリカへ?
しかも、「ソバはBuckwheat」と、陳腐な旅の始まりではないかとのご叱責を頂くだろうか。

そう、日本人から見れば、アメリカは輸出国として日本のそばを一時支えて来た国であり、その後は健康食として日本食がもてはやされるようになって、ニューヨークに蕎麦屋が増えたようというようなことが、一番の関心事だろう。

私は少し違う視点から、アメリカのソバを見る第一回にしたいと考えた。
ソバ栽培の伝播は、建国当時ヨーロッパからの移民たちがもたらしたものである。寒さと飢えに苦しんだ彼らの日常を暖めるものとして、ソバ食は大切にされたのだそうである。
詳しい話は次の会に譲ろう。

「Buckwheat」は英語では植物のソバ。その英語がアメリカ語になって「まぶだち」の意味が加わった。
「まぶだち」は友達、親友、ダチ公。

日本でも江戸時代地方から出てきた大工や火消し人夫の簡単な食べ物としてはやり始めたと言われている。まさにダチ公達が田舎を懐かしみながら食べた蕎麦である。
丁度同じ頃、アメリカではヨーロッパからの移民たちがもたらしたソバを食べる仲間としてのダチ公をBuckwheatと呼びあったのだろう。

序に触れると、Dr. Buckwheat、とかペットにBuckwheatの名が結構ある。犬や猫をソバちゃんと呼び、歯医者さんが蕎麦医院と言う次第。こちらは一寸日本的ではないように感じられるが、意外にあるのかも知れない。
とにかく、アメリカのソバは人々に愛されるものとして栽培され続けてきたと言えるだろう。
Buckwheat Zydeco を聴かれたことはあるだろうか? You tube にも試聴コーナーがある。ロックンロールとブルースをベースにしたような、私にも聞き易いものである。何故ソバかと言うと、かれの髪型がソバの実に似ていたから、ソバ君のあだ名になったのだそうだ。

もう一つ、ウエストバージニアには今年が68回目にあたる有名なソバ祭りがある。
かなり大掛かりな農業祭で、豚や牛、ヤギなどの品評会、木工細工、勿論ソバで作ったケーキの展示即売会。さらには消防士の女性・男性のコンテスがあって、女王と王が選ばれるなど、実に盛りだくさんらしい。Buckwheat Zydeco の生演奏も聴けるのだそうだ。
毎年、9月の最後の週に行われるので、今年は9月24日~27日だそうで、その時には再訪して、日本のソバ祭りと比べてみたいと願う。

ところで、このソバ祭りが行われるウエストバージニア州はアパラチア山脈内部に位置している合衆国内で唯一の州であり、すべての地域山岳内にあることから、山岳州(The Mounと愛称が付けられている。まるで信州ではないか。

アメリカのソバ生産は18世紀と19世紀に多く、20世紀になると急速に減少した。1918に4,000平方キロ、1954には600平方キロ、1964年には200平方キロの落ち込み方である。日本がアメリカから輸入をしていたのはこのあたりの頃で、日本の輸入に対する態度が、色々の問題を残したが、それらはまた次に残そう。

現在ソバ畑が広がっているのは、カナダのソバのメッカ、マニトバのウイニペッグを中心とした平野であるが、アメリカのソバ畑もその南に広がっている。

かってに比較すれば減少したとはいえ、広大なソバ畑へ直接行かずに、何故ニューヨークへ来たのかと、疑問に感じられるだろう。

一つには、ヨーロッパからの移民がもたらしたソバの伝統に触れたかったこと。

もう一つは、ニューヨーク州立のコーネル大学のソバの研究者に会うためである。
コーネル大学は世界的にも優秀な大学とされていおり、多くの分野で多彩な研究者を続出しているが、農学も充実した分野とされている。そこの若い研究者が、実験的な研究と農家への普及活動をどのように組み合わせているかを、日本の大学と比較してみたかったから。T. Bjorkman は最初に会った十数年前には、如何にも青白いインテリタイプで恥ずかしがり屋の、笑顔の優しい青年だった。その後、精緻な研究と巨大な畑に応用できる実用研究を両立させながら歩いて来たようだ、彼のボスはソバの低収量性の最大の原因である受精結実の研究の権威であり、私もソバの研究を始めた頃は、彼の研究論文をむさぼり読んだものである。

栽培作物には、植物として世界共通のこともある。農作物としては、その地の自然環境の特殊性の影響が、食べ物としては・・・・そう、共通する問題と特殊な問題を
とりあえず今日はこれで終わろう。

残念なことが一つ
時間がなくて、アメリカのソバ料理が食べられないこと。
健康食品として、新しい食べ方がたくさん開発されて来ているけれど、ヨーロッパの古い伝統的な食べ方がアメリカに残っているだろう。あるいはアメリカへ渡ってから開発された食べ方など。次回は、是非とも探してみよう。

明日は頭文字がBの国。

2009年6月1日月曜日

散歩のお誘い {世界のソバ」へ(★)

6月1日

世界のソバを訪ねる旅に出かけてみませんか。

国をわたるのに、飛行機も長い列車の旅も、険しい車道もありますから、散歩とは一寸奇妙なとお感じになるでしょう。
あくまで散歩気分での旅の意味です。
デイバッグを一つ持って、のんびり、ゆっくりとした気分での旅です。

ご案内は私、ご一緒頂ければ、二人旅をしたいと思います。
案内者の私は、世界のソバ事情に少し詳しいかと存じます。でも、案内者は説明者で終わりたくございません。二人で歩けば新しい発見が期待できると思います。
如何でしょうか?

道草したり、その地のマーケットで買い物をしたりしながら、気の向くに任せて、色々の国のソバの世界を訪ね歩く旅です。

ただ二つだけ、出発に際して取り決めをしたいと思います。
● 頭文字がAからB、C・・・の順に。
● 一日一国。

勿論、勿論、一日で一つの国の事情が分かるわけはございません。
何度も繰り返し訪れる。と言うことは・・・・
何度も何度も世界一周をする旅の計画は、
一寸いかすでしょう?

何度目かには、案内人は教えて頂く側にまわるに違いありません。

まず最初の一周は、一寸覗いて、友達を作り、また来ますと言えば十分と思って下さい。

明日は頭文字がAの国、America, Austria, Australia, Azerbaijan, Armenia, Albania , Afghanistan

どの国にもソバが栽培されております。
どこに国に致しましょうか?

どこへ行くにしても、早く決めて、
今夜のフライトに乗らなくっちゃー。

何処にしましょう??