2009年6月6日土曜日

ドイツのソバはBuchweizen(★)

6月5日

楽聖バッハはソバを召上っていただろうか?
日記にその記載が見つかった訳ではない。何かの証拠がある訳ではない。
それにも関わらず、私はイエスと答えたい。

バッハはワイマールの宮廷音楽師だったが、本人はお酒好き、最初の奥様との間の子供は7人、次の奥様との間には12人、それなりに生活は慎ましかったのではなかろうか。
勿論、これは現在の庶民の感覚であるから、いますこし置いておこう。

同じワイマールの宰相だったゲーテは、アルプスのブレンナー峠を越えて、その南麓に広がるソバ畑に痛く感動したと、「イタリア紀行」に記している。ゲーテにとってソバは親しい作物だったと推測されよう。

(バッハが活躍したのは18世紀前半、ゲーテのブレンナー峠越えは1786年である。)
   。
遡って見てみたい。
ドイツにおけるソバの最初の栽培の記録は。14世紀末である。それより早くからあっただろうとの説もあるが、その詮議はここでは止めておこう。

1602年に発刊された「新農業」という本には、在来の一般的なパンのほかに、戦時下のパン、飢饉の時のパン、新素材のパンなどを網羅し、それらの作り方も添えた一般書である。全部で80種類近いパンの種類が記載されているが、ライムギパン、コムギパン、スペルタコムギパン、オオムギパン、エンバクパンに続いてソバパンが挙げられている。
なお、この本は14世紀にイタリアで出版された本のドイツにおける改訂版であり、ソバはドイツ改訂版に初めて見られるものである。

ところで、18世紀のヨーロッパは、人口の増大とそれに伴わない食糧生産と飢餓、そして農業発展を繰り返したとされている。代表的なものを上げると、1709-1710年のヨーロッパ全体の飢饉。1739-41年のフランスとドイツの飢饉、1741-43年は南ヨーロッパを中心の飢饉、1771-74年は北ヨーロッパを中心の飢饉であった。飢餓の世紀とさえ言われる。
しかし、飢え死にしたのではない。この世紀にも人口の増加は続いていた。解決方法としては、耕地の拡大と新しい生産技術の開発をもたらした。

こうした状況の中で、ソバが主要な役割を果たしたというのではない。食料不足の中で新しい作物が登場し、イネ、トウモロコシ、ジャガイモなどである。ソバはそうした作物に混じって、そっと支えてきた作物だった。たとえば、開墾地に最初に栽培の可能な作物として、あるいは畑の空く期間が短いときに栽培する、あるいは茎も葉も食べられる野菜として・・・あくまでソバはそっと傍に寄り添って生きてきた作物であることには違いなかったろう。

飢餓の世紀をもたらしたのは、地球全体の寒冷化がより大きな問題であろう。
日本の18世紀は天明の大飢饉を始めとして、大小の飢饉とそれに伴う百姓一揆など、多くの社会不安をもたらしている。

これらから、バッハがソバパンを召上っていても、さして不思議ではないと私は考えることにした。

ところで、18世紀のドイツには、バッハ、ゲーテの他に、   多くの楽聖も文人達を輩出した。バッハ、モーツアルト、ベートーベン、文学ではレッシング、ヘルダー、ゲーテ、シラー、そして哲学者カントと、ドイツ学芸の花開いた時期に、ソバの栽培が最高の年代が一致したと言う、偶然かもしれない事実を、ふと、偶然ではないと思いたくなる。

ドイツのソバ栽培は18、19世紀がピークで、20世紀に入ると、ドイツのソバ栽培はどんどん減少した。

先日のアメリカの話の中で、ソバはヨーロッパからの移民がもたらしたものだと述べた。19世紀末のアメリカの民族構成をみると、ドイツが最多である。アメリカへソバの種とドイツ風のソバパンをもたらしたのだろうか? 
次回アメリカのソバ料理を見るときまで、心にとめておこう。

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