2009年5月5日火曜日

子供の日に高齢者が想うこと

今日は子供の日。
老人の日もあれば良いのにと思う。
「敬老の日がある」とおしやるだろが、それとは違う。

いまの敬老に日は、お弁当をもらったり、老人が喜びそうだとの催し物をやってもらったりの、受身の日である。自分が高齢の只中にある庶民の立てた計画ではない。
同じ高齢者と言っても、現状も、過ごしてきた時代も、家庭環境も経歴も違う。その違いを尊重しあいながら、老人が勝手にホザいてスカッと笑う日があればと願っている。
高齢化すると、若いときには感じなかったいろいろがある。体調の変化も、感じることも少しずつ変わる。 それが私にはひどく面白いからだ。

勿論、贈り物受け取るのが嬉しい人に配ることを反対してのではない。 欲しい人が十人分でも貰うのを可とする柔軟性をと、願っているからだろう。

子供の日についても似たようなことを感じる。
子供が心の奥底で夢見ていることは、とんでもなく大きかったり、ごく小さかったりの「悪戯」のようにも思う。
それがどんなものであっても口に出して良い日。
周囲の大人達は笑って応援する日。実現の方法を一緒に考えてあげる日は如何だろう。
少なくとも、大人の考える理想への道のりではないものを、共に楽しむ日であればと願う。


高速道路の大渋滞のニュースに、
それに子供を巻き込む日であってはならないと感じながら。

1 件のコメント:

  1. 子供の日について
    「子供の夢について周囲の大人達は笑って応援する日。実現の方法を一緒に考えてあげる日。」
    同感です。子供の日に限らずすべての祝日についてもう一度考えて見たいものです。

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